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社会がどういう人を救うべきだと思いますか

ある日、質問箱で以下のような質問を受け取りました。せっかくなので久しぶりのnoteのネタにさせてください。

【質問箱に届いた質問】


車椅子の件を社会は助けるべきだと思います。あと最近話題の海外の有名大学に受かったすーぱー高校生も社会は助けたほうがいいのかと思います。

ただ、僕も給料が上がらなくてちょっと社会に助けてほしいですが、それは自己責任だと指摘されるかもしれません。

いわんこさんは社会がどういう人を救うべきだと思いますか?

【ぼくの回答】


質問ありがとうございます。すごい面白い質問だと思うので、字数制限のあるツイートではなく、noteで長文で回答させてください。

【多くの人はどう考えているのか。そしてそれがなぜ間違っているのか】


「社会がどういう人を救うべきだと思いますか?」という質問に答える前に、まず考えたいのが「多くの人はどういう人を救うべきだと思っているのか?」という問いです。

冒頭の質問に戻りましょう。「車椅子の件を社会は助けるべきだと思います」という点についてです。

先日話題になった車椅子のクレーム事件については「クレームの方法がはたして妥当であったのか」という意見や、あるいは「人的/資金的リソースの観点から、JR側の対応にも限界がある」という意見をたくさん見ました。

ただこういう意見の不一致はあれど、次のことについては大多数の人が同意するでしょう。つまり「生まれつき障がいを抱えた人間は、社会によって救済されるべきである」ということです。

これをもう少し一般化すると次のように言い換えられると思います。つまり「生まれつき、なんらかのハンディキャップを負った人間は、社会によって救済されるべきである」ということです。この点について異論のある人はほとんどいないと思います。

さて、難しいのは以下のようなケースです。つまり例えば質問主さんのような「給料が上がらないので、ちょっと社会に助けてほしい」というケースや、あるいは例えば「アル中になってしまった人間を社会が救済すべきなのか」というケースや、「パチンコに行ってしまうような人間を生活保護で救済すべきなのか」というケースです。

だいぶいろんなケースがありますが、これらに共通するのは、被救済者が「生まれつきハンディキャップを負っている」とは必ずしも言い切れない、ということです。

この場合、多くの人間が以下のような指摘をすることでしょう。「そのような状況に陥ったのは、ほかならぬおまえ自身のせいだ。おまえには自分の人生を選択する自由があった。にも関わらずそうしなかったのは、おまえに責任がある」と。

つまり人間には自由が与えられているのだから、その結果に対しては責任を負うべきである。この考えはあまりに根強く、否定するのは容易ではありません。

ここで一歩踏み込んで考えてみたいと思います。そもそも「自由」と「責任」とはどのような関係にあるのでしょうか。

多くの人間は、さも自由が存在するからこそ、その結果に対する責任は個人が負うべきだと考えます。しかしこれは本当にそうなのでしょうか。

さっきのアル中のケースを例に考えてみましょう。なるほど、「酒を飲め」と強制され続けてアル中になったケースを除いて、一件、この人間には自由があると見做せるのかもしれません。しかし、たとえば以下のようなケースはどうでしょうか。
 
「家庭環境がそれほど裕福ではなく、同級生が通っている塾にも通えなかった。頑張ったものの大学受験に失敗して、希望していた大学には入れなかった。就活もうまくいかなかったので、滑り止めの企業に入社することになった。その企業での人間関係はけっして悪いとは言えない。しかし塾に通っていた高校の同級生は一流大学に合格後、これまた一流企業に入社し、順風満帆な生活を送っている。家に帰ってからこれまでの人生を振り返ってみると、もし自分が裕福な家庭に生まれていれば、あるいはもう少し勉強に、就活に努力していれば、いまのような劣等感を抱えずに生きていけたのではないか。そういったことを毎日考えるようになり、気が付けば酒におぼれる生活を送ってしまうようになった」

むろん、この人に対しても「生まれは選べないんだから、その環境を受け入れて努力できなかったおまえが悪い」「会社に入ってからも努力できたのに、酒に逃げてアル中になってしまった人間をどうして税金で救わなければならないのか」という指摘はありそうです。

しかし僕の言いたかったのはそこではありません。そもそも責任の大前提となる、個人の完全なる自由は存在するのでしょうか?

人間は生まれを選べません。幸運にも裕福な親に生まれるケースもあれば、そうでない環境に生まれる人間もいるでしょう。愛に溢れた家庭に育まれる人間もいれば、そうでない人間もいます。
人間の思想形成に生まれ育った環境が大きく影響を与えることについては、ぼくがわざわざこの場で統計を列挙せずとも明らかな事実です。つまり、個人の意思が生まれ育った環境に少なからず起因する以上、そもそも責任の前提となるはずの自由は、じつはそこまで確からしいものではありません。

では人間には完全なる自由が存在しない以上、責任は存在しないのでしょうか。とった行動のすべてが自由から発生しているといえないのであれば、たとえばなんとなく「ムカついたから」という理由で他人を刺してしまった人間に責任は問えないのでしょうか。

むろんそんなはずはありません。こんな人間はどう考えてもしかるべき処罰を受けたうえで刑務所に行くべきでしょうし、完全なる自由が存在しないから責任を負うべきではない、と言い切ってしまうと、そもそも社会が成立しません。

ここで先ほどの話に戻ります。「自由が存在するからこそ、責任が発生する」のではありません。そうではなく、因果関係が逆なのです。

「自由が存在するから責任が発生する」のではなく、「社会において責任を成立させるために、行為者が自由であるという前提を置く」のです。ある行為者が責任を負うべきだと社会が判断したときに、はじめて「行為者は自由である」という前提を置くことになるのです。

ここまで論じた自由と責任の因果関係については、『責任という虚構』という本に詳細に論じられているので、もしご興味がわけば以下のリンクから買って読んでみてください(アフィじゃないよ!)。

【そもそもなぜ人々は「自己責任」という言葉にひかれてしまうのか】


話が長くなってきましたが、もう少し続けます。

先ほど、多くの人間が「自由に対しては責任を負うべきだ」という前提で物事を考えていると述べました。しかし、上述の通り、じつは自由なるものには疑いの余地があることがわかってきました。しかし、かといって責任というものを社会から放り出すこともできないこともわかりました。

先ほどぼくは「多くの人間が自由に対して責任を負うべきだと考えている」と述べました。そしてそれに対する疑問点を提示しました。では次の問いに移ります。

「なぜそもそも多くの人間が『自由である以上、責任を負うべきだ』という考えにこれほどまでに惹かれてしまうのか?」ということです。いろいろ議論はあるでしょうが、ぼくとしてはこう思っています。

多くの人間は自身の成功が環境によるものではなく、あくまで自分の努力によるものだと信じている、言い換えると自分の培ったものにプライドを持っているからこそ、それを肯定する言説を支持してしまう、ということです。

最近、Twitterでも話題のマイケル・サンデルの新著『実力も運のうち』では、「能力主義(メリトクラシー)が我々が生きる社会をいかに蝕んでいるか」「共同体に生きる我々はいまこそ共通善を取り戻すべきである」という主張がなされています。  

「すべての人間に公平にチャンスが与えられるべきだ。その上で、すべての人間が実力で評価されるべきだ」というのは、一見、反論しようのない完璧なロジックです。

しかしサンデルは「能力主義的な競争の結果として生じる不平等は、正当化されるだろうか?」と疑問を呈します。その理由は二つあります。

一つ目は「第一に、私があれこれの才能を持っているのは、私の手柄ではなく、幸運かどうかの問題であり、私は運から生じる恩恵(あるいは重荷)を受けるに値するわけではない」ということ、そしてもう一つは「自分がたまたま持っている才能を高く評価してくれる社会に暮らしていることも、自分の手柄だとは言えない。これもまた運がいいかどうかの問題なのだ」(『実力も運のうち』p.181~p.182より)ということです。

以下のようにサンデルは続けます。

能力主義信仰の魅力の大半は、次のような考え方にある。すなわち、少なくとも適切な条件下では、われわれの成功は自分自身の手柄なのだという考え方だ。経済が、特権や偏見で汚染されていない公正な競争の場であるかぎり、われわれは自分の運命に責任を負っている。われわれは自身の能力に基づいて成功したり失敗したりする。われわれは自分が値するものを手に入れるのだ。

こうしたイメージは人に自由の感覚を与える。われわれは独立独行の行動主体であり、自分の運命の作者、宿命の主人となれることを示唆するためだ。それは道徳的に満足のいくものでもある。人びとに与えるべきものを与えるという古来の正義概念に、経済が応じられることを示しているからだ。

だが、自分の才能は自分の手柄ではないと認めてしまえば、この独立独行というイメージを維持するのは難しくなる。偏見や特権を克服しさえすれば正義にかなう社会が到来するという能力主義的信念は、疑問にさらされる。自分の才能が、遺伝的な運あるいは神によって授けられた贈り物だとすれば、われわれは自分の才能がもたらす恩恵に値するという想定は誤りであり、うぬぼれなのである。(『実力も運のうち』p.182~183より抜粋)


念のために書いておくと、サンデルは本書において努力を否定しているわけではありません。そうではなく、能力主義を過信した結果生まれた「自己責任」というワードがいかに現代社会に住まう人々を分断し蝕んできたかについて投げかけています。

具体的にサンデルが提示する社会の改善策については、正直ぼく自身も反論があります(長くなるのでここでは触れませんが)。
しかし、少なくとも能力主義の問題点について彼が投げかけた疑問点については、日本に住まう我々も考えてみるべきです。
つまり「今の自分の成功や失敗は、はたして自分自身の努力のみによるものなのか?」「そもそも能力主義は本当に全肯定していいのか?」ということについて。

【質問主さんの問いへの回答】

いろいろ長くなりましたが、ぼくの言いたいことは以下の通りです。

Q. 「社会がどういう人を救うべきだと思いますか?」
A. 社会のリソースが有限である以上、救うべき人間の優先順位は社会の合意形成の中で決められるべきである。ただ少なくとも、安易に「自己責任」というワードを用いて、救済されるべき人間とそうでない人間を区別すべきではない。「自己責任」というワードを安易に用いることは、社会に住まう人々を分断してしまうからである。


面白い質問をありがとうございました。またお待ちしております。

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