ジョジョの奇妙な脳科学――5部の最終回について
ジョジョ5部、良かったですねー。今回は脳科学をたよりに、レクイエムの能力の謎に迫っていきます。
大切なのは結果へと向かう意志であり、それは例え結果として実を結ばなくとも、滅びることなく受け継がれ、どこかで何かを変える。その精神から精神へと連なっていく流れこそまさに「黄金の風」であると、主題が奇麗にまとまってるのが凄い。
排他的に結果を手にできる無敵の能力キング・クリムゾン。それを抗いがたい残酷な運命になぞらえ、それを切り開く過程に煌めく誇り高き意志を繋いでいくことで勝利を掴む。この構図こそまさしく友情・努力・勝利からなる少年漫画の黄金比そのもので、つまり素晴らしくて好き。
しかしながら、その感動に水を差すような科学的知見があることを皆さんはご存じだろうか?
『単純な脳、複雑な私』という本に書いてあったんだけど、脳科学では人間の自由意志の存在に疑問符をつけるような研究があるんだって。1980年くらいの研究で、「意志」と「行動」の関係について脳の働きを調べたら、「行動しよう」という意志の反応が観測された時、脳は既に「身体を動かせ」という命令を筋肉に送っていたことがわかった、というもの。普通の感覚だと意志が行動を起こすようだけど、結果は逆。「思った時には既にやっている」だなんて、プロシュート兄貴のようだ。
行動が意志に先立って発生するとすれば、僕らが意志と呼ぶものは、行動を後追いした辻褄合わせでしかないってことになりかねない。この実験は、「キスしたら好きになっちゃう」みたいなやつが、僕らの意思の正体かもしれないと示してしまった。
さらにもう一つの実験では、「行動」と「行動の知覚」が脳科学的に分離されたらしい。運動を司る部位を一時的にマヒさせてみたら、被験者の感覚ではすっかり腕を動かした気になっているのに、実際には全く動いていない、なんてことが起こったんだと。これなんか大分ゴールド・エクスペリエンスの能力っぽいじゃないか。
ここまでくると、荒木先生はこの実験を参照しながら描いていたんじゃないかって気がしてくる。
そしてその内容は、人間の意思を科学実験で地に落とす、『ジョジョ』の内容を根底を揺るがしてしまうものだ。シーザーが残したツェペリ魂とは一体何だったのか。花京院が必死に残したメッセージも、杜王町に行きたいと言った億康の自立も、まやかしの辻褄合わせということになりかねない。
運命に翻弄されながらも意志の力でそれを切り開いていくストーリーを描くうえで、荒木先生がこの脳科学実験に行きついていたとすれば、どこかでその結果を乗り越えようとしていたはず。そういう観点でラストバトルを考えると、もしかしてキング・クリムゾンやG・Eレクイエムの能力の謎もちょっとは解けるんじゃなかろうか。てなわけで、実験の内容を手すりにして最終戦を考えてみた。
前に、エピタフがパラパラ漫画の先を読む能力で、キング・クリムゾンはそのページを書き換え、そこから再びページをめくらせる能力だと書いたと思う。一方でGERの能力は、先ほどの実験や最初のブチャラティ戦でも登場した「現実の行動とそれを認識する精神の分離」を起こしている。
レクイエム化の特徴としては、直接殴らずとも相対しただけで相手に感覚と動作の分離を起こせるようになっていて、しかもその効果は肉体の動作だけでなくスタンド能力にも作用する。キング・クリムゾンは動作命令をゼロにされ、ボスの知覚意志もパラパラ漫画の逆回しを見ながら最初に戻った。
ラストバトルのあのシーンで起こっていたことと言えば、以上のようなことだろう。
だけどポルナレフの解説によれば、レクイエムの持つ力はあくまで「精神を支配する能力」だ。作品の構造や主題からしてもこれは譲れないはずだし、そうじゃないとアバッキオがうかばれない。大事なのは真実へと向かう意志だ。レクイエムとはそれの有無を判定し、それを伴わない動作命令をまるごとゼロに戻す能力に違いない。効果の先は対象の精神にある。ではその精神はどこにあるのか。
その答えはきっと今僕らの中にある。さっきの実験の話で多くの人はこう思ったはずなんだ。行動が意志に先立つにしろ、その行動を起こしたものがあるんでしょ、とね。この、動作の始点にある何らかの意思めいたものこそが真実の意思、すなわち精神の志向先とでもいうものじゃあないだろうか。
あるコンテクストでの人間の行動は、その人が普段何を志向しているかで変わってくるはず。ディアボロは絶頂の帝王であるという結果を志向し、ブチャラティチームは正しいと信じる道を切り開いていくという過程を志向していた。『眠れる奴隷』で言われたように、他の誰かに伝わり、動かし、受け継がれていく精神のあり方とはどちらだろうか。それはブチャラティチームのあゆみの方だろう。
それこそが真実の意思、すべての意思と動作のはじまりにあるものだ。GERはそこに作用し、それが尊敬に値するものか、受け継がれていくものかを判定して崇高なる精神で審判を下す。
もちろんこれは少年漫画的な演出だ。現実では結果を出す力のある者が強く、ある程度の邪悪は許容される一方で、結果が出なければ中々世間から尊重されることはない。その残酷さは確かに現実に君臨していて、時にそれは生まれ育ちの格差などの運命と一体となって圧倒的な力で蹂躙してくる。
恵まれぬ諸条件を科された運命の中にあっても、結果を求める意思を持ち続けることはかなり大変だ。すぐに心が折れかかる辛さがある。だからこそせめて物語だけでも、君の歩む過程は決して無駄にはならないと保証するものが必要だ。『ジョジョ5部』とはそういう作品だった。僕らが辛い状況の中で、その状況なりの善を志向し前進しようとあがく時、心を吹き抜ける黄金の風を感じることができる。これが、これこそが王道の少年漫画だ。