神聖な物語は地を踏まない
「他人の気持ちを考えられない」と非難されながら、物語の登場人物の気持ちは人一倍考えてしまうという人がきっといるだろう。そういう人は良質な物語に触れるとそこに惚れ惚れするほど緻密な人間が描かれていると感嘆するくせに、現実の人間に有効的とされる類の興味をどれだけ持っているかというと、驚くほど心当たりがなかったりするだろう。そういう人だって中にはきっといることだろう。
先ほど僕はそのギャップがどこから来るのかわかってしまった。わかっている人からするとなんともないことだろうし、別に興味がない人が大半だろうとは思うけれども、中には物好きも居るだろうから書いておく。何故人間には興味が無いのに、物語の人間には入れ込んでしまうのかを。
皆さんは別に僕に対して興味をいだいてはいないだろうけれど、僕も人間に興味がない。少なくとも社交的で明るく溌剌とした、後々有名な企業から内定をもらうことになるようなクラスメイトが他の人間に向けていたような好意的な興味はない。興味があるのはごく少数の心が響き合う人間と、何らかの価値を提供しうる人間と、あちら側の外敵だけ。その他大勢には正直なところ何ら興味がない。多くの皆さんが僕に興味がないように。
ここでいう外敵とは侵略者のことだ。奴らは何らかの利潤を得るために、つまりは自己の勝手な計算のもと、他人の権利を侵害しに行く略奪者である。侵略者は集団内で手頃な相手を見かけると攻撃を仕掛け、狼藉を働き、既存した分だけ自分の集団内での地位を上げていく。もしあなたが侵略を受けやすいタイプの人間であったなら、敵を法で裁けない場合は、徹底して距離をおいて侵略の射程外の間合いを取り続けるか、徹底して打ちのめし、破滅へと追いやるしかない。そうでなければ人格的な生存は保てないだろう。
以上の記述からわかるように、人間は快楽よりも苦痛に着目する。快楽は生存において特段有用ではないが、安全は必需品だからだ。これは野生動物の頃の名残だという。おいしいエサがなくても生きてはいけるが、危険な外敵からは逃げなくてはならない。野生に身を置く動物が無難な餌場を確保できているのなら、わざわざ嗜好品を求めて猛獣と遭遇しかねない危険に乗り出しはしない。
人間の引きこもりを生むメカニズムも同様じゃないだろうか。少なくとも大きな供給源となっているメカニズムの一つではあるだろう。病気と天災を除いて考えれば、今日と同じ明日が来る。それがわかっているのなら、わざわざ危険な社会に出て行きはしない。人間関係やこの社会を好意的に捉えている人物には到底理解できない領域だろうけれど、侵略者によって深く傷つけられた経験のある弱った人々には見に覚えのある人も多いはずだ。
世の中の人間関係は結局はメリットとデメリットである。少なくとも多くの大人はそうであるし、細かく見れば子供の多くもそうだろう。それを突き詰めると快楽か苦痛かをもたらすのが明らかな人間以外への興味がなくなっていく。こういった症状はおそらく自閉症スペクトラムの観念にすくい取られるのだろうけれども、そういった人々について言及される特徴で一つ気になるものがある。その種の人々の精神年齢の成長が10年遅れているという。
そう言われると、他人への興味が薄い皆さんの中には身に覚えのある人も多いのではないだろうか。思えば大学時代はポケモンと遊戯王の話ばかりしていたし、平成が終わるというのに未だに仮面ライダーBLACK RXやビーファイターのことを考える日がある。異性の好みもカーレンジャーのゾンネットからあまり変わっていない。冒頭の問を解く答えはここにある。
精神年齢が10歳下ってことは、つまり子供時代が長いということだ。人より10年長い子供時代を、何とか自殺せず生き抜いたのが僕たちだ。人間は一定の安全が確保された領域から出ようとしないのだから、10年長ければそこが精神のベースキャンプにもなるだろう。我々の価値観は子供時代の影響が強いのではなかろうか。
小さい頃、寝る前に母親から絵本を読み聞かせてもらったのを覚えている。僕は祖父母と同居していたら、祖母の布団に入り、即席の冒険物語を聞かせてもらっている中で眠りに落ちることも多かった。毎回決まって僕と友達数人がどこかに探検に行き、鬼や怪物がいる道中をなんとか乗り越えて宝を見つけるという展開だったけれど、懲りずに何度も繰り返し旅立った。物語のような胸躍る大冒険が、いつしか自分にも本当に訪れると疑いなく信じていた。それは遠足とかお祭りとかでは収まりきらないような、もっとドラマチックで壮大な何らかだ。ドラえもんがそうであるように、自分の生活にも大長編があるのだと信じていた日々が、皆さんにもきっとあったことだろう。
しかしご存知のとおり現実はそうではない。一部の選ばれた人間にしか輝かしい出来事は訪れないのだ。物語のような熱い友情を抱ける友人はごく僅かで、それを確かめあうイベントは特になく、ましてや空から美少女が降ってきて惚れられることなんてないし、両手を合わせて腰に構えても必殺技なんて出やしない。
僕らは長い子供時代において、退屈な日常に裏切られ続けた。世の中は完全に無視を決め込み、物語の介入を拒み、存在を否定し続けた。非日常への憧れはいつしか渇望になり、物語は神聖化されて、経典となった。10年余計にあった純粋な子供の精神が新たな宗教を作り、物語が御神体となった。僕らは祈り続けた。
だからこそ、僕らは物語の人間に惹かれる。そこにドグマがあるから。夢に見続けた理想の世界があるから。そこに生き、そこで会話し、そこで歌いそこで活動する人間こそが僕たちが理想とし続けた本当の人間を体現しているから。価値観が本当に合致する人間なんて、ほとんど物語の中にしか存在しないのだ。
とはいえ僕らも現実の人間だから、中には響き合う人間というのも勿論居る。クラスの中心からの距離が似通っている人間や、色々あって実際の距離は違ったものの本来は等距離にあったはずの人間となら自然と仲良くなることもある。ただそれは少数派であって、多くの人間は違う。彼らは10年早く物語へ没頭することから卒業し、それ以降滅多なことでは空想の世界に耽溺することがなかっただろうから。
僕は少年漫画を何らかの価値の推奨あるいは復権という枠で捉えようとしたことがあった。この試みは結局失敗したのだけれど、よくよく考えてみると、そもそもその価値がいつ誰によって棄損されたものなのか自体がわからなかった。復権というからには、一度貶められているはずなのに。
それのアンサーについても同様だ。価値は退屈な世の中によって棄損された。10年かけてされ続けた。身を挺して相手を想い、時には身を挺してでも助け合う熱い友情も、義理人情を重んじて筋を通すことに努める仁義の心も、現実には早々あるものではない。存在させないことで現実が物語の価値観を既存したのだ。その区別をつける精神が発達しないまま、それが守り通すべき日常の様式として、動物的な本能に刷り込まれてしまった。
だからこそ僕はそういった価値観を強く押し出す物語に出会ってしまうと我を忘れてのめり込んでしまう。ドハマリしてしまう。それは経典に等しいからである。価値を体現しているからである。
その経典を律儀に守ってくれている人間など、現実にどれだけ居ようか。世の中の人々からすれば、僕が勝手に現実にそぐわぬ幼稚な妄想にいつまでも浸かっているのだ。彼らにとって人間関係とは結局のところ無味乾燥な利益が誘引する相互作用にありったけの感情のスパイスを効かせたものに過ぎない。誰もこちらの教義になど合わせてはくれない。ごくごく一部の物好きと同好の士を除いては。彼らとて、僕の標榜する真なる人間関係とは適度に距離を置くだろう。
結局のところ世の中にはほとんどフェイクしかない。それをそういうものだと受け入れる必要がある。僕に対する多くの人たちもそうであろうが、その人達が興味をような物事に対してロクに興味がわかない。だが、そんな奴の人間関係が希薄にならないわけがない。困ったものだが嘆くのであればやらねばならない。これが誤用でも乱用でもない本当の自己責任というやつだろう。それが筋であるし、筋は通すものだという教義を以前何かの物語が僕たちに語ってくれていたはずだ。
気がついたからにはなんとか擬制していかなくちゃならんなあと思った。一旦言葉と文章に直して秩序を与えることが大事だからだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花というやつかもしれない。ともかくこうやってはじめて、所謂「やっていきましょう」になる。
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