『レディ・プレイヤー1』の原作を読んでようやく映画のあのラストを受け入れられた話

 きみたちは『レディ・プレイヤー1』を見たかい? 見たよな? この前テレビでやったし。これを開くってことはもう見たってことだ。だろう?
 だから説明はいらないし、紹介もしない。ネタバレを気にする必要もない。

 ラストの展開はどうだったろう? 僕はオレンジの光で満ちたノスタルジックなハリデーの部屋が好きだ。動作もかわいい。でも突然リアルが大事なんだと言い出した時は、冷めたっていうか、そもそも意味が分からなかった。
 「これだけやってきて結局それかよ! 言っている意味が分かるかって? 分かるわけねーだろ! っていうかハリデーお前死んでないよな?」そう思った。皆さんの中にも結構そういう人はいたはずだ。面白かったのに最後の最後でモヤっとしたものを投げ込まれ、それが残ったまま終幕を迎えてしまった人が。
 僕はそのモヤモヤにどうにか合点のいく筋道を見つけたいと思って、気が付けば原作を読んでいた。
 原作のラストは映画以上にひどい。リアル賛美の中でも我々正しいオタクの不倶戴天の敵である恋愛賛美の手に落ちるラストだ! 原作は原作で映画とは違う面白さがあって、面白い。間違いなく面白いのだけど。ラストが映画の比にならないレベルで汚点だ。栗のイガとトゲ付き鉄球くらいの差がある。
 でも原作を読んだことでわかったこともある。今日は原作と映画を比べながら、ラストシーンについて書いていく。


原作→映画での大きな変更点9つ

1.ウルトラマンがガンダムに、ダイトウはイケメンに
 原作のほうが登場人物の容姿が醜く、ダイトウはニキビ顔の引きこもり。ウルトラマンに変身中、IOIに新宿マンションの窓から投げ落とされ死亡するが、オタクなので自殺として処理される。

2.ディストピア描写の削減
 原作では絶望的な世界の描写や閉塞感ある日常の様子が丁寧に描かれる。映画ではトレーラーハウスの貧困生活とIOIの非人権的な企業活動の描写に絞られている。学校の描写はほぼ省かれた。

3.アルテミスとの恋愛描写の軽減
 原作のパーシヴァルはアルテミスに恋い焦がれ、一時エッグハントを投げだす。エイチとも一時期疎遠になる。映画ではアルテミスを気にしながらも、あくまでもエッグ探しを優先している。

4.試練の簡略化と内容変更
 原作と映画では謎解きやチャレンジする内容が異なる。例えば、映画の序盤で大迫力だったレースゲーム(あのネタってスーパードンキーコング2だよね!?)は原作には登場しない。

5.同年代のヤな奴、アイロックの削除
 アイロックは、パーシヴァルとエイチにエッグハントの知識でマウントを仕掛けるが、返り討ちにあって逆に笑いものにされると、「お前らリアルを頑張ったほうがよくない? 俺は女を抱くのが忙しいんだ」と捨てセリフを吐いて去っていく。

6.IOIのボス・ソレントの経歴
 原作ではそれなりに面白いゲームを作った過去を持つが、原作ではポップ・カルチャーに無理解なビジネスマンになっている。アイロックの消滅と合わせ、作中の対立軸が、ゲーム/リアルから、ポップカルチャーの肯定/否定に変わったことを意味している。

7.モローのキャラクターと関与度
 原作のモローは現在も積極的にオアシスに関わり、自身のアバターも持っている。隠居生活をしているファンキーな爺さんだ。映画のスマートなビジネスマンのイメージとは似つかない。

8.ハリデーとモローの不仲の理由
 原作ではキーラを巡る三角関係が、映画ではオアシスの運営方針の違いが不仲の理由となっている。

9.問題の「旨い飯が食えるのはリアルだけ」発言
 原作では前後の繋がりがなく唐突に、章区切りの扉にて引用される。インターネット的には「自分を入れるようなクラブには入りたくない」発現で有名なグルーチョ・マルクスの言葉だが、作中で彼に触れられているのはその扉ページのみ。映画ではハリデーがラストシーンにて、「現実はリアルだから」という意味不明なお説教の補足として付け加える。


映画のハリデー、死んでないかもしれない

 これはみんな思ったんじゃないかな。それを匂わせるやりとりを、わざわざ映画版にだけ入れているからね。そう、「あなたアバターじゃないよね?」のセリフは原作にはなかったんだ。
 僕は公開当初から映画の裏側のストーリーはハリデーとモローの人間関係だと思っていたけど、その説を強固にする変更だと思う。

 そのストーリーはこうだ。
 ハリデーはモローをオアシス経営から追い出したのを悔いていたが、ゲームでしか他人とうまく関われないから、謝罪なんて当然できやしない。だから自分が死んだことにしてエッグ探しを仕込み、ハリデーの思考をトレースする試練を設定した。経営権を譲り受けた勝者が、モローを頼るように。

 何故そうかと言えば、おそらく病気になったのはモローのほうだから。彼の登場シーンでは終始脇腹を押さえ、ヨタヨタと歩いていたじゃないか。ハリデーは、モローには存命中にどうしてもオアシスに戻って欲しかったんだ。

 この説を裏付ける原作と映画の大きな違いが第三の試練にあった。原作ではキーラへの愛を見抜くことが最後の試練を攻略するポイントだった。これが映画ではモローとの断絶を修正することで試練達成となっていて、原作の恋愛を主軸にしたメッセージが変更されたと読み取れやしないだろうか?

 映画でのキーラの登場が少々強引に思えたのもそのためだろうね。恋愛賛美をバッサリ削ったから、原作とは違うんだってことを示す必要があった。直前に『シャイニング』のお楽しみを用意して、盛り上げたところを、そのまま血の激流に流されるようなイキオイでその持って行ったんだろう。

  原作を読んでわかったことがもう一つある。モローを指すと言われた「バラのつぼみ」のワードが出てこないんだ。「バラのつぼみ」は映画用語で、ストーリーを追っていくと明かされる根本の謎、みたいな意味だったと思う。出展元の映画では子供時代への強い思いを象徴するワードだった。
 ここからも、映画版ハリデーのモローに対する強い思いを感じ取れやしないだろうか。
 

ハリデーのお説教の真意とは?

 と、いう流れを頭に入れたうえで問題の「白けるお説教」について考えてみると、ちょっと違った面が見えてきやしないだろうか?
 原作ではそのまま、アルテミスを抱きしめた感触を指して、リアルが一番だと結論付けている。フィクションは敗北し、リア充のアイロックの言葉がオタクによって追認されてしまう。対して映画版はご存じ「旨い飯」のくだりを持ってくることで、オタクにも共感できる内容にしている。

 ここで、ハリデーの「オアシスがただのゲームだった頃が好きだった」と言ってモローの拡大路線を批判するシーンを思い出して欲しい。
 ハリデーはもっと器用に他人とコミュニケーションをとりたいと考えてオアシスを作ったのに、実際はそのゲームが現実の生活を飲み込み、オアシス自身がゲーム内でしか他者と関わらない人間を増やしていってしまった。ハリデーはそれが悲しかった。

 原作で丁寧に書かれていたディストピア描写を必要最小限に抑えた改変がここで効いてくる。原作のオアシスは夢のゲームというより、悲惨な現実から逃避するツールの面が大きかった。映画版ではその要素を弱めることで、「ゲームばかりしないで外へ出て他人と関われ」という、時代錯誤なお説教とは違ったメッセージを持たせているように思える。

 映画版のハリデーが言いたかったのは、文字通りそのまま「旨い飯が食えるのはリアルだけ」ということなんじゃないかな。
 フィクションを過剰に賛美せず、オチで貶めることもせず、その持つ力を肯定し、それを愛す姿勢はそのままにして、ただしそれはあくまで現実の世界があってことなんだと、両者のバランスを取った。
 一応原作にも、リアルのエイチがアバターのイメージと全く違っていても友情は変わらない、って描写はあるから、映画では余計な恋愛をリア充ごと追い出して、フィクション体験の肯定に焦点を絞った形だろう。そしてその体験は素晴らしいものだけれど、飯を食う場所のことも忘れるなよ、と。


結局映画版のオチはどういうこと?

 ハリデーはフィクションでしか他人とうまく関われなかったから、フィクションにのめりこんだ。その人格がいくら浮世離れしたものであっても、想いの軸足は現実世界にあったってことだ。世間にどう思われようと、自分の本心はそこにあったのだと、きっとそのことを分かって欲しかったんじゃないかな。
 そして、その人物からの「僕の作ったゲームを遊んでくれてありがとう」というのはつまり、「自分という人間と関わってくれてありがとう」という意味に違いない!
 フィクションでしか他人と関われず、そのために夢の世界まで作ってしまった男の、不器用な人生が、ポップカルチャー好きの手で本懐を遂げる。それが映画版『レディ・ブレイヤー1』なんだ。


おまけ:原作者、どうして改宗したの?

 映画版は監督こそスピルバーグだけど、脚本は原作者のアーネスト・クライン。
 ラストシーンでいきなりスピルバーグがトチ狂ったと思った人もいただろうけど(僕もそう)、
 映画版の脚本を書いたのは小説版の作者その人なんだ。

 ちょっと待て、じゃあなんでお前いきなり恋愛サイコー教団から鞍替えしたん???
 その疑問の答えはなんと原作の一番初めに書かれていた!

 原作の冒頭には、二人の人物の名前が記されている。外国の本によくある、「親愛なる〇〇にこの本を捧げます」みたいなやつだ。捧げられている一人目は執筆時の妻スーザン・サマーズ・ウィレット(作家)。二人目は予想だけども子供なんじゃないかと思う。


 そう。


 作者、離婚してるんだよね。それも多分、執筆から映画化までの間に。


 多分ね、それが真相だと思う。
 最初はオタクな自分でも結婚して子供を持てたことが嬉しくてたまらなくってさ、「恋愛サイコー! 人生ハッピー!!」が主軸のストーリーにしちゃったんじゃないかな。そういうアピールもしたかったんだよね、きっと。
 原作のキーラもアルテミスも、元妻と同じギーク・ガールだしさ。
 でもその結婚生活が上手くいかなくなって、凹んで、「あーっやっぱしフィクションは俺の味方だ! ごめんよフィクションお前ってやつはサイコーにクールだぜ!」ってところに戻ってきたんだよ。予想でしかないけど、きっとそうに違いない。だってこれはオタクにありがちな過ちだから。

 でもまあ、作者はその後再婚しているらしいけど、今度は同じ過ちを繰り返していないんだし、許してやろうじゃないか。

いいなと思ったら応援しよう!

TROUD
コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。