「ソラリス」読書感想文
スタニスワフ・レム
沼田充義 訳
古典SFの中でもまあまあ読みにくい部類に入る「ソラリス」を読んだ。ソラリスは知名度だけなら高いと思うが、中身の知名度に関してはどうだろうか?と思う。映画で済ませている人は多いんじゃないかな。
映画では確かケルヴィンとハリーの関係に重点を置いたものだった記憶があるけど、原作の方は「ソラリス」とは何かについて研究する論文が三分の一を占めているのだから読みにくいのも仕方ない。気合を入れないと目が滑るし眠いし、まるで物理の教科書(私の睡眠導入剤)を読んでいるかのような体験だった。
毎回こういう歯応えのある作品を読むときお供にしているNHK100分de名著のムックも、このソラリス回は解説すら難解だった。そのぐらい、読むのに努力を要する作品だった。
なので、頑張って読んだぞー!という記録を残しておきたい。
ざっくり、ハリーが出てくるまでを序盤とするのだけど、まあこの序盤がとにかく読みづらかった。
専門用語がみっちり詰まってるし、誰もかれも明瞭な受け答えができないし、状況理解が進まないのに環境説明だけは豊富、というアンバランスさ。それが狙いなのだとわかっていても、ここで脱落する人絶対いるだろ。
とはいえ、無機的な説明がずっと続いてるわけではない。
あ、宇宙だな、と感じる文章だ。
SF小説で、宇宙を感じる瞬間はどんな時だろう。宇宙人や宇宙船が出て来た時、それとも星の名前、天文学や物理学の難しい言葉、複雑な機械や大気現象の描写。色々あるだろう。物理と天体と化学と数学の授業を投げ捨てて来た私には、SF小説に使われる言葉の大半をちゃんと理解できていない。何となく難しい言葉だから、それは宇宙なんだろう。宇宙=なんか難しい言葉で表されるもの、というイメージさえある。
でもこの文章に難しい言葉はなく、体感が書かれている。「遠さ」が「高さ」になる。座標の曖昧な宇宙空間にあったものが、惑星基準の空間になる。その感覚の切り替わりが、宇宙を感じる瞬間で、すごく好きだ。
この「ソラリス」という小説は「ソラリスって何?」というお話なので、まずは惑星ソラリスがどんな星なのかを知っておかなければいけない。
理科と算数が死ぬほど嫌いな私が雑にまとめると、
・惑星ソラリスは作品時間軸100年前に発見された。
・ソラリスは赤い太陽と青い太陽、二つの太陽のまわりを周回している。
・ソラリスの表面は殆どが海で覆われており、この海が惑星の軌道を能動的に維持している。
・ソラリスの海は知性体なのか、それとも単純な生物なのか結論は出ていない。
つまり、惑星ソラリスのことはよくわからないということだけが判明している状態だ。
序盤ではこの惑星ソラリスの基本的な環境設定、その観測のためのステーションの異常が淡々と書かれている。
序盤にある感情は恐怖や混乱だ。先住のスナウトとサルトリウスはどちらも怯えているし、訳のわからないことしか言わない。ケルヴィンはひたすら不安を煽られ、背後を気にしてしまう。おまけに気温は高くて、彼らは汗をかいている。
けれど読んでいる間、なぜか冷たさを感じていた。それは登場人物の言動が一貫して、コミュニケーションになっていないからなんだと思う。論文も含めて、序盤に出てくる文章はどいつもこいつも一方的だ。双方向ではない。
人物が二人いれば、そのコミュニケーションによってお互いの立場や力関係、過去や目的が定まる。けれどソラリスのステーションではコミュニケーションが成立しない。
だからケルヴィンという主人公が物語に関わる立ち位置を決めるには、明確なデータで足下を固めるしかない。そのスタート地点がこれだ。
狂っていた方が幸せだったのに、残念ながら正気だ!と腹を括ったところで、物語は動き始める。
ハリーが登場したことで、硬直していた物語は一転して滑らかに進行するようになる。コミュニケーションが始まったのだ。
ケルヴィンはハリーとコミュニケーションをとりながらその正体を見極めようとし、一方でハリーもケルヴィンの反応から自分とは何かを考えるようになる。
ハリー(幽体F)は形こそハリーではあるが、その記憶も含めて正しくはハリーその人ではない。彼女は自分の死後にあったこともなぜか知っているくせに、自分という存在がどこから来たかもわからない。けれどコミュニケーションを止めることだけはしない。ケルヴィンと双方向のコミュニケーションをとることで、自己の輪郭を掘り出していく様は、人間ではない筈なのに人間らしかった。
怯えて萎縮していた二人の研究員も、コミュニケーションによって変化する。得体の知れないお客を受け入れ、果ては縁を切り、消滅させようぜ!まで行く。コミュニケーションって大事ね。
中盤で、いいな、と思ったのはスナウトの発言だ。長いけど全部引用する。
これたぶんレムの宇宙観なんじゃないかな。
未知の存在と遭遇に対する厳しい視点だと思う。未知といいながら本質的に求めているのは既知の延長線にあるもであり、求めているのはコンタクトであってコミュニケーションではない。
だからSF小説にでてくる未知は、すごく強大な敵か、とても優れた先導者の役割を与えられる。ただひたすらに未知であるものは出てこない。
だってわからないままのものと付き合っていくのは嫌なのだ。せめて敵か、あるいは味方かぐらいは定義付けたい。
しかしレムはソラリスを敵とも味方とも定義づけない。それどころか最後までソラリスは未知のままで終わる。それが読者にとってはひどく居心地が悪い。
でもそういうもんだろ、未知との遭遇って。とレムはスナウトのセリフの中で言っている気がする。
人間の認識と理解を超えた未知のものは、いつまでたっても未知なのだ。
終盤怒涛のソラリス学で、まあ目が滑る滑る。でも架空の星を一から作るのだから、その研究も存在しているだろうし、いろいろな学説も派閥も存在しているはずで、それを出さずしてソラリスを語ることはできない。創作者の意地のようなものが、あの部分なんだろう。
結局のところ、ソラリスがとったのはコミュニケーションだったのだろうか?ある意味はそうだし、ある意味では違う。ソラリスの海そのものは、コンタクト(接触)を繰り返すだけの存在だ。けれどその一部であるハリーは、ケルヴィンとコミュニケーションをとっていた。
でもそのコミュニケーションでソラリスの海が変わることはない、とケルヴィンは考えている。ソラリスの海は人智を超えた大きなうねりであり、二人の間にあったコミュニケーションは砂つぶのようなものだ。
ケルヴィンはソラリスの海を、神のなり損ない、あるいは神の幼体であると結論付けた。神は多分コミュニケーションを求めない。あるとしたらコンタクト(奇跡)だけだ。
それでもケルヴィンはその果てに何かがあるかもしれない、という未来への期待を持って終わる。
なんかスッキリしない終わり方ではあるけど、未知はやはり未知のままなのだから仕方ない。
そういうものがあってもいい。だって宇宙だもんな!