『ぬるい眠り』江國香織著 〜 青い夕方が教えてくれたこと
夏の夕刻。真っ青をベースにした空に赤紫が混じって、空気にも青が溶けてなんとなく灰色感もあって、気温は生ぬるい。世界が青に包まれているような気がして、いつもの景色がすべて青ににじむ。
大体が、休日の昼寝の後に出会う景色だ。「ああ、そろそろ晩ごはん作らなきゃ」と焦って、買い出しに出た時にこの空と空気に出会う。
寝起きの気だるさがあって、寝汗がまだベタつく。なんとなく鼓動が早い。Tシャツの中を空気がサラリと通っていく。不思議な空と空気のもとで、夢から現実へと戻っていく。
この青い夕方を、プルキニエ現象と呼ぶらしい。
そして、この空と空気に出会うと、思い出す感情がある。失恋だ。
ふわふわとよみがえってくる失恋の感情を、江國香織さんの短編小説『ぬるい眠り』に重ねる。
大学生の雛子は、学生最後の夏、一つの恋を失った。でもその後も、淡々と日々を過ごしている。既婚者だった相手との別れは、なんとなく終わり切れていないけれど。
新しい恋も始まった。平然とこのまま過ごせるはずだった。
でも、突然、元恋人への思いが蘇ってくるようになった。毎晩、白い蛇に締め付けられる悪夢にうなされる。蛇は嫉妬だ。ついには生き霊となって元恋人の生活に忍び込んでしまう。
会っていないのに、彼の奥さんとの暮らしが見えてしまう。
会っていないのに、彼の奥さんの姿形までわかってしまう。
失恋とは不思議だ。ただ一人の人間に執着することなんて、時間の無駄遣いでしかなく、非効率的だ。それでも、気になって気になって、とらわれてとらわれて。自らを責めて、意味もわからず泣く。恋を失うことは体も心も苦しい。
わたしも20代には、数回、大きな失恋を味わった。その度に何にもやる気がなくなって、動きたくなくなった。思いは堂々巡りして、自分がわからなくなった。悲しくて立ち上がれず、体は、とんでもなく疲れていた。
そんな感じの時に読んだのが『ぬるい眠り』だった。雛子に自分を重ねた。雛子はプルキニエ現象が起きると、ひどく息苦しくなるとあった。だから、青い夕方は、物哀しい景色のように思えた。
でも、失恋って苦しいけどどこかで清々しさがあったのも事実だ。プルキニエ現象を見るたびに、苦しいけど大丈夫、明日があると思えた。
だって、プルキニエの青い夕方は、とてもきれいなのだ。
青くて赤くて紫で、どこまでも広がる。喪失感はあっても、ふと見上げると、なんとも言えない美しい空がある。眺めていると、またここから始めたらいいんだしと思える。そんな空だ。
だから、再生の空だ、希望の空だと、私は感じていた。
小説の中でもそうだった。
トオルくんは雛子の新しい恋人。慣れないドライブに二人で出かけたときに出会うプルキニエ現象。いろいろな表情を見せる“あお”が、雛子を未来へと導く。
ラストシーン、雛子は引きずられていた恋を静かに葬る。
デリケートだった20代この小説に出会えてよかった。プルキニエの青い夕方のことを知ったから、生きてこれたのかもしれない。
あれから20年。久しぶりに読んでもやっぱり心地よかった。
幸せな気持ちになれた。そう、幸せが描かれていたんだな。
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プルキニエ現象は、自然の現象というより、自分自身のヒトの視感度と波長の現象なんだそう。プルキンエ現象ともいう。
プルキンエ‐げんしょう〔‐ゲンシヤウ〕【プルキンエ現象】
『ぬるい眠り』は短編集の中に収まっている一編。再生の物語。私は何度も何度も読んだ。痛みを負った人に、読んでほしいと思う小説の一つだ。
『ぬるい眠り』(新潮文庫)
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