他人のキラキラLIFEに嫉妬は御法度
ぼくは他人に認められたいという気持ちを持っていないと思っていた。インスタ等SNSなんかは一度も投稿した事がなく、そもそもなんのために他人に自分の私生活を晒すのかと疑問にすら思っていた。これらの行為を、ぼくは承認欲求を満たすためのものだと考えている。友人と呑んでいるというストーリーを上げ、恋人との思い出の写真を投稿し、「あぁ、この人はこんなに幸せに生きているんだな」と、他人に思わせ自分が幸せでキラキラしていると見せつけたいのだと思う。又、他人以上に幸せでありたいのだとも思う。
ぼくはこのように思ったことが一度もなかった。そもそも、どこへ行ってもどんなに美味しいものを食べても、写真を撮って記録に残そうとすら考えたことがなかったのだ。それに、自分には自分の人生があり、他人には他人の人生があるものだと思っていた。しかし、現代を生きる者たちは自分がどこで何をしているかをSNSによって伝え合い、友人と位置情報まで共有している始末。ぼくは他人がどこで何をしていようが気にもならないし、楽しかった話や自慢話があるなら、会った時に直接話してくれればいいのにと思う。まぁ、自慢を自分からするのは気が引けるという謙虚さのある人間からすれば、投稿をすることでそれが友人の目に留まり、会った時に「この間○○行ってたよね?」から始まる会話もあるかもしれないが。
畢竟、ぼくはSNSとは承認欲求を満たすためのツールだと思っているわけだ。そんなSNSを、あくまで自分の得たい情報を仕入れるためのツールとして利用しているぼくには、承認欲求がないのだと思っていた。しかし、心当たりが生まれてしまった。それは、自分が何かをする時に恥ずかしいという感情が生じることだ。そりゃ自信のあることであれば、人前であろうと堂々とした態度で行えるが、自信の無いこととなると恥ずかしさが生まれる。例えば、カラオケだ。ぼくは自分で歌が下手だと自負している。友人とカラオケに行こうと誘われても極力断るし、行ったとしても友人にばかり歌わせて自分は隅っこでジュースを飲んで手を叩いてるだけというのが常だ。絵が下手で、描いた絵を他人にあまり見られたくないというのもある。しかし、歌も絵も芸術的なものである以上、上手い下手で評価するべきものではないではないか。下手だから聞かれたくない見られたくない、上手いから聞いて欲しい見て欲しい、というのは、他人から認められたいという気持ちがあるからなのではないかと気がついた。
「他人の目なんてどうでもいい!ぼくは我が道を生きるんだ!!」と思っていたつもりだったが、ぼくも今までぼくがバカにしていたような、醜い承認欲求の塊だったのかもしれない。