ぼくはお前らの笑顔が見たいの
友人との他愛もない会話には大抵オチなんてないが、話し始めであったり、話し方で「お、こいつオチのある話をするな」となる。そうした時に話を聞きながらどんなオチかを予想してしまう。ぼくの通っている大学にオチのあるトークをする教授がいる。その教授がしていた話なのだが、
とある男子学生には4年間付き合ってきた彼女がいた。彼女は大手企業に就職が決まったものの、男の方は未だに決まる気配がなかった。そんな時に男は振られてしまったらしい。キャンパス内のベンチで落ち込んでいる彼を見た教授は声をかけた。すると彼は
「デートに何度誘っても断られるんだよ」
と言った。教授は彼に彼女とのLINEのやり取りを見せてもらったのだが、なんと彼は2日のうちに23回もデートの誘いをしていたらしい。そのLINEを見た教授は彼に問いかけた。
「"失恋"←これはなんと読むか分かるかい?」
「しつれんじゃないですか」
「いいえ、あなたは"しつこい"んだよ」
このオチによって教室内は感嘆の声を上げる者、笑う者、賞賛の拍手を送る者で溢れかえった。でもぶっちゃけぼくとしては、教授が話しながらホワイトボードに失恋と書いた時点でオチが読めてしまった。さすがにぼくも気づいたタイミングで、コソッと「しつこいだろうね」とか野暮なことを言ったりはしない。今までぼくは先を読めるというのは利点に思っていたが、その時、ある意味自分の楽しみを減らしてしまっているのではと感じた。このようにオチを予想しながら聞いてしまうのは、この教授がオチのある話をしてくれるというある種の信頼があっての事だろう。テレビでお笑い芸人がトークしているのを見る時も同じように頭をフル回転させながら見てしまう。
人のトークのオチを予想出来たところで、それはあくまで上手い伏線があるからなわけで、大してすごいことでもないだろう。と思うが、あんなオチが見えきっている話ですげぇーとか思えるバカよりは何倍もマシな頭を持っていると思う。
ぼくは芸人さんがすごい好きだ。ぼくは芸人の中でもネタを書いている方を尊敬してしまう。ネタを書くことで0から1を生み出し、もう片方のアクターが1を100にする、というコンビが多い。どちらもすごいことではあるが、どうしても頭を使っている感のある方がすごいと思ってしまう。そんな人たちを尊敬しているぼくとしては、自分もしっかりとオチのある話をしたいと思ってしまう。なにも全ての会話にオチをつけようなんてのはさすがに無理なため、たまに訪れる一方的にぼくが話せるチャンスの時に、間違いなく笑いを取れるトークをしたいと思っている。でも大抵の人はわざわざオチを作り出そうなんて考えている人は少ないわけで、求めてもいないのだろう。
ぼくは小学生の頃から教室や廊下で走り回っているタイプだったのだが、どうやら大学生になった今でもそれは抜けていなかったらしく、空き時間に友人たちと次の時間に自分たちの授業で使う教室で鬼ごっこをしていた。そこには机や椅子も並んでいるわけだが全力でやった。教室内にはいくつかの段差があるのだが、ぼくはそこで転んだ。椅子にぶつかってドンガラガッシャーンとなったわけだが、当然その教室内には同じ授業を受けるであろう他の学生もいた。恥ずかしさはあったが、ちゃんと"教室内で走り回っている奴"としての仕事は果たせたなとか、美味しいとこ頂いちゃいましたわ、みたいに思っていた。
ぼくは人よりも何倍も頭を働かしていると思っている。でも本当は他人と考えている量は大して変わらないし、何に目を向けているかの違いなわけで、ぼくの目に付くようなもの、興味を抱くようなものに対して他人が考えていないというだけな気がする。人が普段からどんなことを考えているかなんてのは分かりようがないわけで、比べることは出来ない。だが、日常的な会話の中で出てきた話題に対して、その話題を出した奴よりもディープな知識をひけらかしたり、前々から自分なりに考えていた思考をドヤ顔で話すことが出来てしまうため他人のことを舐めてしまう。
大学生になってから友人との関わり方がとても変わった気がする。高校生の頃に中学時代からずっと仲の良かった友達と遊んでも、あまり相手に気を使わなくてもいい関係なため、無言だろうと、あまりつまらない時があろうと何も思わなかった。しかし最近は、自分自身も「こいつと遊んでもあんまし面白くないから誘わなくていいや」みたいに思うことがあるため、人からもそのような選別をされているかもしれないと思うようになった。差別的なほどに思われていることはないだろうが、ないわけではないと思う。卑屈すぎるかもしれないが、いかに自分がそいつと遊んだ時に結果を残せるかで次に繋げられるかが決まると思っている。
ぼくの心の根底には、"みんなで楽しみたい"という想いがある。それは誰もが同じように想っているだろうが、楽しい空気を作ろうという思考を持っているのが自分だけかもしれないため、頑張っている。誰もがお互いに気を使い合えることが最も良いとは思うが、そう上手いこと出来ない者もいる。そうであれば、気を使える側が気を使ってあげることが大切なのではないだろうか。ここで、「なんで自分ばっかり気を使わなければならないんだ」とか思う人もいるだろう。そう思うのであればやらなければいい。だが、やらなかったなら、あなたは"気を使える人間でない"という認識を他人からされてしまう。自分はできる奴だと思われたいのなら、多少の苦労は必要なはずだ。楽して認められようとするな。
こういった自分の心に秘めておくべき話をするのは無粋であることは重々承知しているが、時には文字にするなり言葉にするなりしないと気が済まないこともあるだろう。要はこれは愚痴なのだ。どうせぼくの努力なんて誰も気付いてくれてないんでしょ?ってやつ。そう考えてみればみんながやっていることとなんら変わらないわ。でもこういった思考を生活の中で口走ってしまいそうになる時がたまにあるのよね。そんな時は、1人で「これがセルフブランディングだ」とか言い聞かせて我慢してる。