知らぬが仏の顔も三度まで
見て見ぬふりというのは簡単に出来る。指摘するに価しない嘘であったり、指摘することで相手との関係性が崩れてしまうなんて事実であれば、知らんぷりを通すのが大人なんだろうなと思う。
ぼくは大人にはなれない。内容はともあれ、相手にとって自分が"騙してもいい者"であると認識されていることが許せないからだ。当然、嘘と冗談の判別ぐらいはつくと自負している。ぼく自身、冗談を言うことは大好きだ。それが相手にとって嘘と捉えられてしまうかもしれないと危惧しながら発言もしているつもりである。だからこそ、騙す誤魔化すといった発言はしたくないしされたくない。自分がしていないのだから自分だけされるのはおかしい、というのが自分勝手な理屈であることは承知だが、事実としてぼくは悪いことをしていないし、相手は悪いことをしているのだからこう思ってしまうという理屈だ。
冗談を嘘と捉えてしまう、嘘を冗談と捉えてしまうなんてパターンもあると思う。前者の場合は相手に対する信用度が低いからこそ発生しうる。後者の場合はその逆であろう。後者により起こりうる最大の問題は、「信じていたはずなのに裏切られた」と感じることにあると思う。嘘を冗談であると捉えてしまう以前から、その者との仲を自分のみが自分なりに良好であると感じていたからこそ起こるものなわけで、それまでの積み重ねが全て無意味となり、その積み重ね方すらも否定されることとなってしまう。
苦しむぐらいなら、ぼくは大人にならなくていい。