永劫回帰 BAD
細々しく遠慮がちに降る雨、寒さに凍えながら傘を握る左手。普段ならばなんの違和感もない日常的な出来事にさえ嫌気が差す時がある。どうせなら思いっきし土砂降りになってしまえばいいのに。すれば傘なんて意味をなさないからとびしょ濡れになることを受け入れられる。濡れないために傘を差す、そんな防衛的な自分に、日常に嫌気が生まれる。
小学生時代は自分が中学生になるなんて幻想程度のことであった。6年生になり、一緒にサッカーをやっていた一歳上の人達が中学校のジャージを着て練習に混ざりに来ても、自分がそのジャージを身に纏う姿は想像がつかなかった。いざ、中学生になり、二歳上の兄が高校受験の為に、休日の間中、自室に篭もりっぱなしになっていても、自分が受験生として努力している姿は想像つかなかった。実際、ここに書いたようなことをぼくはその身になってもしたことはなかった。わざわざ小学生の練習に混ざる体力を残せないほどに、Aチームに上がるために全力で練習に取り組んでいたし、高校受験もしたものの、努力はせず入れる高校に入っただけだから。
ぼくは今まで、人生において失敗という失敗を経験したことがない。大学進学も、東京に行って好きな服を着て、今までよりもっと広い知見を得られればなんて思っていた時もあったが、努力したくないとは思っていたが学力的な妥協ではなく、親に甘えた生活をするために実家から通える大学へと進学した。
目立つ苦悩を抱いていないからといって、それが楽かと言えばそうでもないことが多いように思う。大学やバイトに行くのだって、「明日は何時に起きなきゃだな。」とか考えなければいけないし、当たり前のように繰り返している日常の中にも、多少なりともストレスは発生しているものだ。生きるということが、こういったストレスになりうることの連続であることは重々承知ではあるが、これが全くなければどれだけ楽に生きられるのだろうかと日々思う。しかし、誰もが同じように感じながら生きているのならば、ぼくのような自堕落さを受け入れてしまっている人間がこう思うのは高望みなのだろう。
ふとした時に将来が不安になることがよくあるのだが、その大抵が期待混じりの不安である。大学に進学している前提、就職出来ている前提、彼女がいる前提、あまりにも都合良く不安が生まれる。つまり、自分は所謂普通な人生を歩むのだろうと考えてしまうのだ。恐らくこれは、前述した通りぼくがあまり大きな挫折を味わってこなかったことに由来するのだろう。そう考えることで、人生経験の乏しさを実感し未熟者であることが恥ずかしくも思える。しかし、失敗したことがないというのは決して悪いことではなく、それだけのポテンシャルがあるからこそなのだとポジティブに捉えることにする。なんでも都合良く、ポジティブに考えられる、それがぼくの良いところだから。