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掌編小説:自助伝#1 これじゃなきゃダメなんだ

#1 これじゃなきゃダメなんだ



右片麻痺。

病院に行けば、俺と同じようなやつは五万といる。

俺もその中の一人に違いないが、俺は腐っても、俺なんだ。

寿司屋を営んでいた俺は、ある日右手がしびれ、大事なネタを落とした。
みるみるうちに右半身が動かなくなり、救急車を呼んだ。

脳梗塞と言うらしい。

どこか他人事のように思える病気が、俺の身に起こったんだと自覚する。

俺は5カ月に及ぶ入院生活を経て、回復期リハビリ―テーション病院から自宅に退院した。

仕事には戻れないと言われた。

ただ、何もせずに諦めるのは俺の性に合わない。外来リハビリを続けたいと医者に頼んだ。

その時のリハビリの先生は、作業なんとかっていう仕事らしい。

俺の仕事、包丁を使うこと、昔のことをだいぶ聞いてくれた。俺も思い出しては、心が弾むように話した。

先生。もう一度寿司を握りたいんだ。

諦めが半分、願望が半分。

でも先生は「やりましょう。絶対に」と言ってくれた。

少しだけ、救われた気がした。

とある日、リハビリの先生は奇妙な道具を出してきた。

「これは自助具といって、包丁の持ち手をL字型にしてあります。力は今までよりも入りやすく、切ることが容易いはずです。」

台所に立った。粘土のような、練習用のものを切る動作をした。

握り手から、包丁の切っ先が伝わってこない。

ただ包丁らしきものを、動かすだけ。

俺の心の中で、俺が死んだ気がした。

その後ひと月ほど、外来リハビリには行かなかった。

診察の日、リハビリに行かずとも診察には行かなければ薬がもらえない。

重い腰を上げて、診察を受けた。

「最近、リハビリできてないんですか。何かありましたか」

愛想笑いを浮かべて、俺はその場を後にした。

「○○さん」

振り向くと、リハビリの先生がそこにはいた。

相も変わらず、前と同じように接してくれる。

「リハビリは、ちょっと」

と帰ろうとした。

「少し、見てほしいものがあるんです。」

リハビリの先生の目は、真剣だった。

いつかの俺が、寿司を握るときと同じ目をしていた。

いつもの部屋に行くと、そこにはあの自助具の包丁があった。

「だから、俺はそれじゃダメなんです」

その言葉に先生は頷いて、こう返した。

「はい。あなたの包丁は、今まで使ってたものじゃないとダメでした。
 切れればいいわけじゃない。あなたの真心を、置き去りにしてしまいました。」

そう。俺は、いつかまた包丁を使うために、退院してから毎日研いでいた。

濡れたタオルの上に包丁を置いて、左手で丁寧に。

あの包丁は俺の人生と一緒にあった。

だから。

「あの包丁に、いまの手に合うように手を加えることはダメでしょうか」

その提案に、俺は首を縦に振った。

持ちたかった包丁は、俺には一つだけだった。

そして今も、こうして家族に寿司を握っている。


自助具の意味と機能


一つの動作を捉える時、3つの側面がある。

それは機能(function)、形態(form)、意味(meaning)だ。

彼の仕事は寿司屋だった。

寿司を握るうえで、ネタを適度な厚みで切ることが重要になるわけだが、それは包丁の機能として当然のことである。

包丁の持ち手が変われば、そこに使用される手の機能も変化する。
元の持ち手で扱えないがために、持ち手を変更して別の機能で代償する。

これは自助具としては正解のはずだった。

ただ、寿司屋の職人としてはどうか。

持ち手が変わったことで、手のformだけではなく、立ち姿も変わった。
職人から、障がい者の一人になった。

この立ち姿から作られる寿司を、皆は求めているのだろうか。

そう感じた彼は、寿司職人としての自分が死んだように感じた。

つまり、包丁を握る意味を見失ってしまったのだ。

この3つの側面は、相互に影響しあう。

それぞれの側面の独立した最適解があったとしても、それが正解とは限らない。

それを痛感させてくれたのが彼だった。

彼は包丁の切っ先を自分の手のように扱い、指先でなぞるかのように繊細な感触を拾い上げていた。

包丁の切っ先の感覚をどこで、どのように受け止めていたかを本人に繰り返し聞き、持ち手を修正した。

彼のネタを切るときの全体の姿勢(form)が変わらないように、持ち手を工夫した。

すべては、彼の寿司を握る意味を見失わないためだ。


自助具の紹介


最初に提案したL字型包丁



彼の包丁に合わせた持ち手の工夫



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