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映画「八犬伝」タイトルは「馬琴」とする方が正しい

♪じーんぎれーいち、ちゅうしん、こうてい!
ある世代の人々なら、こう書くだけでメロディが頭の中で流れるだろう。
私が小学生の頃、NHKで人形劇の「新・八犬伝」が放送されていた。辻村寿三郎の人形たちが繰り広げるファンタジー活劇を坂本九がナレーターで語った。こんな壮大な物語を江戸時代に生み出した人がいたのかと子供心に思ったものだ。
この映画「八犬伝」はその創作のエッセンスをたどりながら、これを苦しみ悩みながら書いた作者曲亭馬琴の物語だ。だからタイトルそのまま「八犬伝」の映画を期待すると、あれ?と戸惑うかもしれない。だから真面目に考えると「馬琴」というタイトルにすべきだが、それだとただの伝記映画みたいになるからねえ。それにエッセンスだけど「八犬伝」のダイナミックな活劇もたっぷり映像化している。

「八犬伝」の物語にあらためて触れてみて、本当に壮大で、きらびやかで活劇の魅力もたっぷりなことにおそれいった。子どもの頃も次々に登場する魅力的なキャラクターがどんどん展開する物語に魅入られた。この映画もファンタジーと活劇を存分に描いてる。
犬塚信乃と犬飼源八の古河の城の上の戦いは素晴らしかった。人形劇でもスペクタクルを感じたのを覚えている。
ただこの映画は主従で言うと主は馬琴の半生のパートだ。数年かけて物語を進めるたびに葛飾北斎に聞かせて「面白いか?」と聞く。北斎は「面白い!」と今聞いた話を絵に描く。馬琴はその絵が欲しい。きっとイマジネーションが広がるからだ。だが北斎は「やらぬ」と鼻をかんで捨ててしまう。その作家同士のやり取りがなんとも面白い。
何年か経ち、また馬琴が続きを北斎に語る。お互いに白髪やシワが増えているがまた北斎が絵を描き、馬琴が欲しがる。そうやっていよいよ二人が老いていく。二人の天才の長い年月をかけて育む友情が素敵だ。
そして壮大なファンタジーをダイナミックに描くフィクション「八犬伝」の部分は従であり、主の馬琴の話を進めるための題材でもある。この贅沢さがこの映画の大きな魅力だ。
馬琴が戯作を書くこと=実と、彼が創造した八犬伝=虚が交互に描かれ、実の世界で虚を描くことの意味に苛まれる。実の世界に正義などないからこそ、虚の世界では正義が報われたい。鶴屋南北はそんな馬琴に正義に意味はあるのかと問いかける。意外にも江戸時代に現在に通じる虚構論が戦わされるのが面白い。
勧善懲悪に意味はないのか?それでもぼくたちは、八犬伝の最後で玉梓が怨霊を八つの玉の力で倒されると爽快な気持ちになる。
この映画は実は山田風太郎の小説「八犬傳」が原作。おそらく馬琴が戯作を書くことと、描かれた八犬伝の世界を交錯させ、虚と実が入り乱れつつ虚を描く意味を問うのは原作にあるのだろう。この時代に八犬伝そのものではなく「八犬傳」を映画化した着眼点が素晴らしい。
子どもの頃に「新・八犬伝」を見た人には特にオススメです!
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