改元しても終わらない
改元で、日本が大騒ぎしている。
広辞苑で「改元」を調べると、「元号を改めること」とあった。
それはそうでしょう。
では、「改める」の意味は?
これまた広辞苑で「改める」を調べる。
「改める」には、「新しくする」と、
その補完に「これまでのをやめて、別のものにする」という意味があった。
「これまでのをやめて、別のものにする」は簡単に言うと
「替える」だろう。
「かえる」もいくつかあるが、漢字には夫(おとこ)が二人、
Aの人から、Bの人に替え…替えられてしまうのか?夫としての立場を?
そう、Aの男とBの男は別人である。
Aの時代とBの時代は別時代である。
だから私はわからなかった、数学の時間、証明の問題に現れた命題。
A=B、B=Cのとき、A=C この三段論法が。
私はもうそこで憤慨し、数学の道に背を向けました。
AとBの間にイコールが置けるはずがない!と。
こんなに想像力が豊かと言うかむしろ欠如したアホは私くらいだろうと思っていたら、
なんとカール・グスタフ・ユング、
偉大な心理学者、精神分析学者である彼も、
私と同じように、A=Bに怒って、数学があまりできなかったそうだ。
こんなに想像力が豊かと言うかむしろ欠如したアホと同じことで怒っていたユングも、だからといって「想像力が豊かと言うかむしろ欠如したアホ」では(どう考えても)ないし、
論理的な思考力を人並み以上もつユングがこれに怒っていたからといって、
これに同じく怒っていた私が論理的な思考力を人並み以上持つのかも疑問である。
まあ、ともかく。ユングもそこには引っかかったと言うことで、共通点があって嬉しいです。
なぜって、私はユングの心理学が昔から好きなのです。
ちなみに私の母は、アドラー心理学を随分昔から学んだアドレリアンだそうです。
私が彼女とうまく理解し得ないのはここが理由かもしれません。
音楽性特に問題なし。宗教問題なし。性格はまだ我慢できるけど
心理学…これは大きい不一致だ。
まあ私と母との不和はともかく。
アドラー心理学といえば、『嫌われる勇気』という本、流行りましたよね。
褒めるのではなく、勇気付けることだとか、
あらゆる関係は対等な、横の関係だとか、
トラウマの存在を否定する、未来志向の心理学。
…とこれは不勉強な私の少しかじったアドラーの理論。
私は彼が未来を今の私より前に、過去は今の私より後ろ側に設定しているように感じます。
ですから、もう終わってしまったこと、トラウマにも冷淡です。
で、私はユングが好きですが、彼はトラウマという存在を否定しません。「人の心は現在も、過去の経験と密接につながっている」と考えます。
私自身の精神的感覚では、辛い過去は私の後ろにもありますが、
すぐ横にもあるし、目の前にあることもあります。
過去の感情は、過ぎ去ったものではないのです。
ユングはまた、「空間や時間は、心的に相対的」と言いました。
それで、人間はプチ・タイムスリップができるんだと思います。
タイムスリップしたなああ!って気分になること、ありますよね?
よくできた歴史小説とかで……ない?
ないですかそれは弱りました。
私がタイムスリップしたのは、高校3年生当時所属していた劇団公演で
林幸子さんの原爆詩「ヒロシマの空」を朗読した時です。
https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/taikenki/sora.html
あの時、私は確かに青く晴れた広島にいて、
瓦礫の中をとぼとぼ歩き、熱くなった瓦礫を素手でかき分け
ついに母の白い骨を見つけました。
あの涙は、私のもの?それとも幸子さんのもの?
とても不思議な気持ちでした
心的な感覚として平成の世の私の隣には、林幸子さんがいました。
現在と過去は前後ではなく、限りなく重なって隣同士でした。
朗読劇でもそうですが、演劇を習う時、
台詞を台本に書いてある句読点通りに切って読むと、
めちゃめちゃ怒られるか、笑われますね。
それは書く時に読みやすくなるようにつけるんだ、
お前の台詞に流れる感情が本当にその句読点で切れるのか
よくよく考えろと言われるのです。
それで、一切切らずに読んでみたり変なところと思いつつ切ってみたり、
色々してみて、ともかく台詞で大切なのは、
(滑舌や声量もあるけれど)
感情(その台詞の伝えたい気持ち)が生きるフレーズにして喋ること。
読点で一度止めた方が良い時もあるし、
句点を捨てて先に進むこともある。
そう考えるようになりました。
ですから、書く時はもちろん気を使う句読点ですが、
読む時は自由に。
日本では句点。英語ならピリオド、終止符だって、本当に終わりかどうかはわからないわけです。
で、改元です。
なんか年表みたいなものがあるなら、
平成には31のところでピリオドが打たれちゃったわけ。
大化から数えて248番目の令和、ところどころピリオドが打たれた
ながーーーーーーーい物差しができるよね。
ところで、メソポタミア文明のレガリア、つまり王権の象徴物って、
ものさし(とか巻尺)だったそうですよ。
神から与えられた目盛りは絶対だよね。
目盛り一つでなんて言う単位だったんでしょうね。
単位といえば、古代エジプトなんかでは「キュビット」って単位を決めて、
肘から中指の先までの長さを1キュビットっつって。
いや、バラバラやん、と言うツッコミもあったのでしょう、
次第に、有力者、もっと言うと王様の数値を公式の長さとして制定していったそうです。
こう言う人体や人間の能力に基づく単位を、身体尺と言いますね。
時代を数えるために、もっとも有力者、もっと言うと王の命の年数を一つの単位にしたもの、それが元号かと思うと、
やはり日本にとって天皇は王様なんだなぁと思いましたよ。
そしてそれが変われば騒ぐわけです。
と言うことは、元号は多くの人々のものさしでもあるんですね。
私はA=Bで怒る方の、ユングの方の人間なんで、
本などで得た明治の喜びも悲しみも、大正の喜びも悲しみも、
昭和の喜びも悲しみも、全部同時並行に感じています。
もちろん、平成も。
新たな元号のため、句点が、ピリオドが打たれてしまったけれど、
私はまだ、平成にはピリオドが打てない。
ピリオドがあれども無視して、演劇の台本で言うところの、
感情(その台詞の伝えたい気持ち)が生きるフレーズにして喋ろうと思う。
トラウマなどないぞ、大事なのはこれからだと言う未来志向の心理学より「空間や時間は、心的に相対的」という心理学が私には合っています。
ですから、私が想うのは、
未だ津波とともに生きる人、地震とともに生きる人、
様々な事故や事件とともに生きる人。
時間としてはもう過去になっても、今でも目の前にありありと浮かぶその「時」と生きているすべての人たち。
「新しい時代が始まります、過去を忘れることのないように、していきましょう。」
ではなくてね。
同時並行とか現在進行形の過去もあると思うよ。
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