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なぜ、大人の学びには痛みが伴うのか?

こんにちは、秋山です。今日は、「変容的学習」についての論文です。

相互作用性に着目した変容的学習論の再評価
―「痛み」概念の変遷を手がかりに―
正木 遥香

変容的学習とは、解釈や判断のあり方や行動や態度の取り方に影響を及ぼす認識の枠組みを、より優れたものにアップデートしていく過程のことです。対になる概念として「知識型学習」があり、読んで字の如く新しい知識をインプットしていく学びのことです。

イメージとして、知識型学習は、容器に水を入れていく学習。変容的学習は、器の形を変える学習といったらわかりやすいでしょうか。

例えば、新卒で営業部に配属され、書類の手続きや電話の掛け方を習うのは、知識型学習にあたります。一方、学生から社会人にマインドチェンジし、今までの当たり前から新しい思考の枠組みに変えていくことは、変容的学習といえます(学生:ただしい答えはだいたいネットに落ちてる、社会人:一つの決まった答えがあるのではなく探索的に正しそうな方向に進んでいくことが仕事である)。


痛みが変容の着火剤

痛みは、変容的学習の引き金となりますが、まず痛みとは何かを整理してみましょう。

ここでいう「痛み」は、学習過程で生じる心理的な動揺や葛藤を指します。この痛みには、理性的なものと非理性的なものが存在すると言います。

理性的な痛みは「混乱的ジレンマ」で、今までの価値観が揺さぶられ、対処の仕方が判断できなくなるものです。昨日の答えが今日の答えとは限らない昨今、私たちは常に混乱的ジレンマと隣り合わせであるといえそうです。

次に、非理性的な痛みは「悲嘆」です。意識に含まれる価値観や愛情、依存の対象を喪失し、情動的な苦しみが引き起こされることを言います。


なぜ大人の学びは、痛みが伴うのか?

「混乱的ジレンマ」「痛み」を感じるということは、今まで自分が置かれていた役割とは、別の役割を期待された時に、これまでのやり方では通用しないとわかることです。

つまり、自分の役割を把握した上で、自分が持ち合わせる方法ではその役割を全うできないとわかることで初めて痛みを感じることできます。逆にこどもは、役割認識がなかったり積み上げてきたものが小さかったりするので、自分の不甲斐なさを感じる機会も少なく、痛みを感じにくい傾向にあります。

🙄「おとなとは、社会に対して何かしらの責任を持つ人」というのが私の中での定義ですが、責任を全うするために自分なりに導き出した答えが否定されることが引き金となり、痛みが生じ、それを乗り越えるために変容が促されと理解しました。


痛いけど、受け入れてくれるなら!で大人は変わる

では、痛みがあればあるほど変容するのでしょうか?仮にそうだとしたら、もっと多くの人が変容的学習を頻繁に経験しているはずです。

実は、痛みを経験し、周囲が変容を受容する文化がある時に、大人は変容すると本論文ではまとめられています。変わるということは、危険をはらむこと。過去と違うやり方で失敗するかもしれない。

それでも変わってみようと思えるのは、周囲がその変容を受け入れるスタンスがあり、間違っても責め立てない安心感があるからこそです。

個人的感想

痛みが変容的学習のきっかけになることは、経験則的にも同意できましたが、さらにいえば自分の「こうありたい!」という期待役割や「自分はこういう人間」という自己認知と現実にギャップ(痛み)がある時、特に変容的学習が促進されるように思います。

たとえば「秋山さんはもっとこうしたほうがいいと思うよ」というフィードバックも、自分が目指したい方向性とは違う、とんちんかんなものだったら多少ちくりとした痛みは感じるものの、「貴重なご意見あざした!」と軽く受け流してしまい、刺さらない。

一方で、自分が薄々感じていた弱みや、見せないように隠していた部分を指摘されると、いてもたってもいられない衝撃と痛みが走り「あああ、穴に入りたい、でもありがとね。」となるものです。

単なる痛みが大人を変容させるのではなく、耳がいたいフィードバックが大人を成長させてくれるんですね。フィードバックはご馳走、これ言い得て妙です。


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