客観的にみたら、自分も他人になった
タイトルから朝井リョウみを感じて、すかさず買いました。まず、自分は朝井リョウ作品をよく読みます。
「好き」と表現するのはたぶん、微妙に違っていて、好きで読むというよりは、もはや小説版の自己啓発本みたいなイメージで”承認欲求”とか”何者かになれる”と思ってる自分に対して、”自分をしっかり見ろ。”と訴えられた気分になり、自分を見つめ直すみたいなことをしてます。
読む小説の嗜好ですら自分の嫌いな自分の「意識高い系」な部分が出てる気がして辛いです。
ちなみに、”朝井リョウみ”と表現したのは何者、スペードの3、スターとかそういう内容の話です。
で、朝井リョウの作品を読むと、主人公のどうしようもない部分を自分に重ねて、心がズーンとなる。
それによって自惚れずに済むというか、本当は承認欲求とか主人公感みたいなんを持った恥ずかしい人間やのに、「自分はそういう人とは違って自分を客観的に見れてますよ、そっちではないですよ。」と自分に言い聞かせてる感じ。
そういう朝井リョウを読むことによる一種の現実逃避?心の安定を保つバランシングのつもりで、この本も読み始めました。
主人公は、正直パッとしない(部屋に小説が溢れかえるほど好きで、それを仕事にできる、小説家である時点ですごいんやけど、、)感じで、勝手に朝井作品と重ねて、求めてた嫉妬とか苦悩とかはない。むしろ、朝井リョウ的主人公の持つ承認欲求、批評家ムーブとは真逆の超客観的な人間。この作品では、承認欲求や虚構まみれの第三者を主人公視点で、見て、関わって、分析して、語っている。
基本的に自分は一人称視点(主人公視点)に感情移入して読むので、主人公が承認欲求まみれで虚構オニギリな片桐やババを客観的に分析してて、自分も、「そういう人おるよな。なんでそんなことするんや。」って思っていながら読んでました。
そうして普通に読み終えて、「あれ?いつもの読み終えた後の”この主人公は自分だ、、”感がない。心がズーンとならない。読み終えてため息が出てない。もしかして、もう何者になれるみたいな考えが自分から無くなってしまった?心の平静を手に入れたということか、現実を見て野心を失ったか。。」と良くも悪くも複雑な気持ちになりました。
「なんか、思ってた本と違うな。」
でも、よく考えると、主人公の持つ背景が朝井リョウと違う。感情移入先が心がズーンてなる登場人物じゃなくて、それを側から見て、もはや我関せず、って思っている人。
そもそも主人公は小説家として成功している”持っている”側の、”何者”側の人。そっちに感情移入しているからそりゃ、承認欲求、虚構まぜそばの人を見ても、”恥ずかしい”って思えちゃう。
結局、自分やと思えば、渾身のボディブローになっていたものは、他人の話やと、まるで自分はそうでないかの様に、「あぁ、恥ずかしい。やめときな。」って思ってしまう。
客観的になった方が、自分を見れてなかった感じになってたと気がつきました。
客観的とは主観性を排除することなので当然と言えば当然かもしれませんが。。
結論、良くも悪くも、まだ自分が”何者かになれる”という野心をおそらく捨ててはいないことがわかりました。一方で、ずっとあえて控えていた「正欲」をやっと読めるのでは?と思ったけど、それはまだ先になりそうです。