もしやこれはアウトプット過多なのか?


唐突に数日SNS断ちをしようと思い立った。
Twitter、threads、Instagram。SNS3つ。
そして早急な返信が必要な連絡以外、チャットは無視すると決めた。

Twitterに登録したのは16歳、高校2年生の頃だ。それから15年間Twitterを見なかった日は1度もない。

学生時代はツイ廃といっていいほどTwitterに入り浸っていた。モバゲー、GREE、mixiの全盛期だった高校時代。周りにTwitterをやっているリア友はおらず、フォロワーは専らネット上で知り合った顔も本名も住んでる場所も何もかも知らない他人だった。
その後上京してからツイ廃へ滑落する速度は尋常ではないほどに加速した。実家を出て都会に住んで世界が広がったにも関わらず、現実世界では熱量をそのままに価値観を共有できる他人の数が唐突に減った。発したいことは膨大に沸くのにそれらを伝えられる身近な人は周りにいない。持て余したわたしは日常で湧く感情の全てをツイートしていたように思う。

笑っちゃうくらい懐かしい謎のしきたりに「ほかってきま」「ほかいま」「ほかえり」というのがあった。「お風呂に入ってくるので落ちます」という挨拶のようなもので、今振り返ると何だそれなんですが。
未だにLINEにおいてですら『浮上』と『離脱』の感覚が抜けない。もはやLINEは基本的にいつだって浮上状態である。Skypeみたく「取り込み中」バッジが欲しいとずっと思っている。いつだって浮上状態だからこそ、わたしは返信が早いのだ。これはあのときの名残なのではないか。


SNSを数日断とうと思ったのは、漠然と、心がとんがっていたからだ。
表寄りのthreadsには好奇心とだけ書いたのだけれど。先述の通り、15年もの間Twitterを見なかった日がない。見なかったら自分の思考がどうなるのか変化を知りたいという好奇心は確かに理由のひとつでもある。
ただそれ以上に、いろいろとしんどくなった。
どんな時でも人と繋がっている感覚と、無意識にあらゆることを他人に共有しようとしてしまう自分が。

基本的にひとりで立っているはずなのに、人と関わり続けている状況から心労が積もりに積もってどんどん窮屈になってくる。無意識に他人のことを考えすぎて気を使いすぎるのだろう。こちらの勝手な感情を知らないところで押し付けられている周りの人たちはたまったもんじゃないでしょうね。


んだけども、それにしたってまーーー弊害が多岐に渡りますわぃ。これは実体験を通した発見である(言い回しかっこよ!)。電子空間で他人との関わりを完全に断つなんてのは、あまりにも現実的じゃない。

そもそもSNSを1秒たりとも全く見ないというのが無理だった。当初はそれを決め事として打ち立てたんですが。アプリではないにせよ、思いもよらないところでうっかりWEBからURLを踏んでしまう。トラップがありすぎる。おっとっとぉ!開いてしまったぁ!ってやつを、少なくとも3回はやった。

YouTubeはOKにしていて、めちゃくちゃ良いボカロPを見つけた。のに、Twitterを開けないためにその人のアカウントを辿れない。この曲が好きですと文字にして叫べない。当然その人にも届かない。

友人におすすめされて見始めた今期のアニメのWikipediaに同期の名前を見つけて“お!”っとなったが、わざわざ本人にLINEするのも変だし、これはツイートに相応しい程度のことだ。
が?ツイートは?禁止してるんでしたね…?というわけで胸の中に押し込んでここに吐き出してみるなど。

SNSを徘徊する時間が空いたのでいっちょ推しのライブチケットをちゃんと調べてちゃんと取るかぁ〜としたところで、本人のTwitterアカウントを見ないとまとまった出演情報にたどり着けない。なんてっこったい。とりあえずチゲットを漁って目ぼしいところを取った。

以上3つの出来事でさえ、いっそツイートしたい内容なのかも知れない。は?????

そして、心境の変化について。
SNS断ちというよりも通知断ちにおいて。
通知を意図的に無視することで確かに自分の中に余裕が生まれた。オフっているようでオフれない感覚がずっとあったのだろう。そして、自分が無意識に即返信をしていたことによって相手にもそれを要求したくなる思考が生まれていて、これが改善されたのが何よりもよかった。

メリハリは大切。とっても大切。
自分の時間は自分で守るしかない。
他人に搾取されていいわけないですよ。お互いにね。わたしもだし、みんなもだよ。

threadsにはTwitterを見れないことが不安だと書いた。当初はインプットを強制的に排除することに不安を抱いていたけれど、始めてみたらTLを追えないことはどうってことなくて、それよりもやはり通知に即反応できていないことが気になった。
が、さらに続けていくとわたしが思っている以上に他人はわたしの反応速度について気にしていないという事実に自主的にたどり着いた。
というかそもそも、気にしているわけないやん。

そう、結局大したことないのだ。
SNSを見なくても、数日人々と連絡を取らなくても。
わたしはここに生きているし、みんなも日常を日常として超えているだけで。伝えようとしなくていいし知ろうとしなくたって別にいい。

共有は膨大量じゃないからこそ大切にできる。
たまに意識的に制御するのはいいことだと思った。
インプット以上に、“他人に左右されたアウトプット”の制御を。

まぁ得た知見のアウトプット会場として、ここには垂れ流すんですが。好きな人だけ見てくれたらいいよ。
生きるの下手くそなりに、これからもそれなりにやってきたいです。(作文んん!?)

おおすかちゃんを!あなたの力で!生かしてたもれ!✌︎