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眠れない夜
今は体の周期的にもメンタル的にも絶好調の時期である。
だが眠れていない。眠る前にコーヒーを飲んでしまうとこういうことになりがちだ。
眠れないので本を読んだ。
雨宮まみの『40歳がくる!』だ。買ったまま積ん読していた。
しおりを挟んであったところから読み始めると、ボイトレでレリゴーとか、テキーラにウーロン茶とか、なんだか私にも経験あるようなないようなことが書いてあった。
読みながらテキーラの味と匂いと二日酔いの絶望的な気持ち悪さを思い出して、軽く酔った。
雨宮さんは私が失ったものを持ち続けたまま40歳を迎えて、そして亡くなったんだなと思った。
39歳で一体何があったんだろうか。
私にも昔、人には言えないような悲しみやショックな出来事はあったけど、雨宮さんのそれがどんなものだったのかには想像が及ばなかった。やはり身体にまつわることかなあ。
私は雨宮さんと違って何の才能も情熱もないし、何にも一生懸命にならないままボーッと40歳を迎えてしまったけど、「このままじゃいかん」と自分に鞭打つだけの気力ももうない。
私には娘が生まれ、人生は次のサイクルへと切り替わってしまった。
タイムリミットはもう過ぎてしまったのだ。
人生の決着は、既にもうある程度ついてしまった。
そして白み始めた空を横目に、明け方の冷たい空気を吸いながら思うのだ、「結局私は、どこの誰なんだろう?」と。
ここは私の生まれ育った土地じゃない。
たまたま夫になった人に便乗してついてきただけの土地だ。
私は自分が何者であるかという問いからずっと逃げ続けてきたのだけれど、結局逃げきれてはいないのだ。
お前は何者で、どこから来て、どこへ行くのだ?
何をすれば、幸せになれるのか?
振り切ったつもりが、その問いは結局私の背中にぴったりとくっついて、
この過疎の町まで私を追いかけてきた。
私は「自分の親を反面教師として娘を育てる」ことで、娘を幸せにし、その結果自分も幸せになれると思っていた。
しかし、そんなのは幻想だよね。冷静に考えればわかる。
結局娘を自分の人生のリベンジに利用していることに変わりはないのだ。
けれど娘は自分とは別の人格なのだから、ちゃんと本人が望んでいることに向き合わなくてはダメだ。
娘には娘の幸せを、そして私には私の幸せを。
じゃ、私の幸せって何だよ???結局その問いに立ち戻ってしまう。
地方に来れば幸せになれると思っていた。
都会にいても幸せじゃなかったからだ。
じゃあ今、私は幸せなのか?
今もまだ、「ここではないどこか」を頭の中でぼんやりと描き続けて、現実を直視していないのではないか?
そして結局思うように生きられていないことを、いまだに自分以外の誰かのせいにし続けているのではないだろうか?
眠る前のコーヒーが変に効いてしまい、朝までこんなふうに思考をぐるぐるさせている時に改めて思うのは、「やっぱり私は、時間を気にせずひとりで好きなことに没頭できる環境が欲しいのだなあ」ということである。
もしも、結婚しなければ・・・子どもを産まなければ・・・などと1ミリも思っていないと言ったらウソになる。
娘は可愛いし、夫には今の生活を与えてくれたことに感謝している。
けれど、やっぱりそれと引き換えに失ったものが、私にはあるのだ。
それが今、喉から手が出るほど欲しくなる時がある。
細切れの時間では取って代えられないような、
朝も昼も夜もないような、
誰にも干渉されることのない連続した時間の大きな塊は、
今となってはもう二度と手に入らないような気がしている。
眠る前にコーヒーを飲むことでしばしその体験版みたいなものが手に入るなら、私はまた今日のようなことを繰り返してしまうかもしれない。
ただし朝が来ると頭はフラフラだ。体に良くないことがよくわかる。
そして夜通し起きてしまった分昼間に寝るのでは、また私に対する夫の視線は冷たくなるのだろう。どう転んでも生きづらい。ここは紛れもなく今の自分の家なのに、自分の家ではないような気がするのだ。
フラフラの頭で書いた妄言は、いずれまた消すことになるだろう。
いつもそんなことばかりしている。
こんなことを書いて何になるというのだろう。