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勝ち取るに難しく、育むに難しいもの

産婦人科医のsaboさんのVoicyを聴いていたら
知っている詩のことを話していたので
本棚を漁ってみたら、あった。
吉野弘の『贈るうた』という詩集だ。
その中の「奈々子に」という詩と、
「祝婚歌」という詩についてsaboさんは語っていた。

そしてその「奈々子に」を読んで
無事に今ボロ泣きしている私がいる。
根っからのポエマー気質である私、ちょろいものである。

saboさんも言及していた一節を引用しよう。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

吉野弘『贈るうた』より〈奈々子に〉

これを読んで思い出すのが、
子育てとはあまり関係ないのだが
大学1年生の時の「共通絵画」という科目での出来事だ。
モチーフは何の変哲もないただの岩だった。
どう描くかは個々人に任されていた。画材も自由だった。
私は何をどうすればいいのかわからず、
ただひたすらに岩と向き合い、
それが正解なのかどうかもわからないまま
(もちろん絵画に正解なんてない)
手持ちの画材で必死に岩そのものを描いた。
何をどうしていいかわからないから
自分なりに「グレー1色に見える岩の表面から
僅かな色彩の要素を感じ取ってそれを描こう」と思った。
結果、「実際よりも少し色彩豊かな岩の絵」が出来上がった。

ところが、周りの同級生は私の想像をはるかに超えるような
もっと自由な発想で岩を描いていた。
なかには平面の絵ですらなく、
立体的な表現に取り組む学生も少なくなかった。
色彩も私がじっと岩と睨めっこしてやっと得たようなものではなく
もっと自由に自分の好きな色を使って表現していたし
岩なのにふわふわやキラキラした素材を貼り付けている人もいた。
私はそれらを見て激しく混乱してしまった。
どうして、どうしてあの地味なモチーフから
こんなに派手でめちゃくちゃなものが生まれるの?
みんな真面目にちゃんとモチーフと向き合ったの?
モチーフ無視して自分の中の楽しい世界を表現しただけじゃないの?

そうした混乱をそのまま講評の際に口に出したら、
私は先生からただ一言、こう言われたのだ。
「他人を認められないのは、自分を認めてないからだ」

私はショックで一人だけ異世界へ飛ばされたような感覚になり、
自分の絵そのものについては結局何と言われたのかも覚えていない。
共通絵画というのは1年生の誰もが受ける必修科目だったから、
担当教授は自分の所属学科の先生ではなかった。
そんなふうに関係の浅い相手からさえも、
自分の精神的欠陥を瞬時に見抜かれてしまい、
私はショックでボロボロ泣いたし、数日間立ち直れなかった。
数日間どころか、今もこうして胸に焼き付いているのだから
いかにこの言葉が核心を突いていたかわからない。
とにかく私は、自分という人間を認められずにいたから
周りの人の描く絵も認められず、
世界を受け入れられなかったのだ。
そしてそこから抜け出すことは非常に困難を極めた。

吉野弘が言いたいことは、そういうことのような気がする。
他人を認め、世界を受け入れるためには
まず自分自身を認められなければならないのだ。
今の私には、それができているだろうか。
「かちとるにむずかしく
 はぐくむにむずかしい
 自分を愛する心」を
私はあの時から大切に育ててこられただろうか。
今でもぜんぜん自信がない。


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