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「文章」というデジタルタトゥー

考えてること・伝えたいことは、生きているだけで常に変わっていく。
昨日まで考えていたことを、今日間違っていると気づいたりする。
だから、考え方が沸騰している絶好のタイミングを逃すと、その時に書き殴っていた文章は投稿できなくなる。
事実、僕は殆どの下書きを、noteに投稿できていない。

少し前、こんなnoteを投稿した。

心ない言葉やぞんざいな扱いに心底傷つき、それがどうしても許せないタイミングだったからこそ、こんなに強い言葉を使ったnoteを投稿することができた。

この中で、僕は人間を2種類に分けている。
真面目な人間と不真面目な人間、罪悪感のある人・ない人で。
さも前者が善で、後者が悪のように書き連ねた。


でもこの前、世界はそんなに単純じゃないことに気付かされた。

僕にとって「罪悪感がない」のモデルの1人になった高校の同級生がいる。
彼は大学に入っても他人を馬鹿にし、女性に手を出しまくっていると聞いた。
その事実は、自分の説への確信を強める要因にもなっていた。
そんな中、その同級生と今でも仲の良い友達に会う機会があった。
その時、話の流れで「彼に罪悪感など無いのではないか」と聞いてみた。
すると、真顔で「それは違うよ」と諭された。

「確かにアイツはクズに見えるかもしれないけど、同じ部活のメンバーで旅行に行った時は、言いすぎたことを反省して、ちゃんと謝ったりするんだよね。
アイツは仲間意識というか、大事にしたい範囲が完全に決まっていて、それが狭いだけだと思う。
めちゃくちゃ暴言吐くし、ゆきずりの女には中出しするかもしれないけど、罪悪感がないわけじゃない。
罪悪感を感じる範囲がお前と違うだけだよ。」


あまりにもその通り過ぎて、ハンマーでぶん殴られたような衝撃を受けた。
その人に成り代わったこともないのに、「罪悪感がない」などと客観的な事実だけで勝手に決めつけて、軽蔑して、そのことに今まで罪悪感を抱いていなかったのはどちらの方だ、と思った。

勿論、僕にとって、未だに彼の言動は理解できないところが沢山ある。
でも、僕の考え方が、余りにも自己中心的で危ういものであったことには気づけた。

こんなことが他にもある。

ちょっと前まで、1人でいるのがどうしようもなく楽しかった。人と関わるのは、諍いや誤解を生むだけで、碌なことが起こらないと賢しらぶっていた。

でも、就活で大きな壁にぶつかった時、1人じゃどうにもならない緊急事態が、この世には存在することに改めて気付かされた。
そんなことは、高2でいじめられていた時、既に学んでいたはずなのに。

だからもう間違えてはいけない。
大きな壁を超える時のために、大事にしたい人との関係だけは、どんなに醜くてダサい方法でも繋ぎ止めなきゃいけない。絶対に安易に手放してはいけない。
それが分かってから、1人の時間も大事だけど、他人との時間もそれ以上に大事にするようになった。

考え方は常に変わり、アップデートされる。
だから、その時々の感情の赴くままに行った自己表現は、文章は、デジタルタトゥーだ。


過去に世界の真実だと思っていたものが間違いだって気づいた時、世界に向け放った言葉の刃は、ブーメランに代わって全部自分に返ってくる。

そして自己表現の何が怖いかって、共感してくれた人がいた時だ。
ありがたいことに、noteを読んでコメントをしてくれたり、TwitterにDMを送ってくれたりした人がいた。

嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。死ぬほど嬉しい。

ただ、そのnoteに共感してくれた人に対して、「考え方が変わった」と手のひらを返し、昨日とは全く逆の主張をすることは、裏切りではないのか。
僕らが芸能人に対して簡単に口にする「昔の方が良かったな」という現象が、こんな小さな規模でも起こるのではないか。

有名人でもないくせに自意識過剰なのは百も承知だ。
でも、だからこそ、改めて表現者の凄さを思い知った。
自らが放つ言葉の刃で人を傷つける危険性や、信頼を寄せる人を裏切る可能性も全てを飲み込んで、それでもまた新たな作品を生み出すなんて、並大抵のエネルギーではできない。

その源は、化け物じみた承認欲求だったり、劣等感だったり、表現する行為に対する興奮だったりするのかもしれない。

だが、僕の中にその莫大なエネルギーがあるとは、どうしても思えなかった。

改めて言うが、コメントや感想を貰えて、死ぬほど嬉しかった。
自分の書いた文章が、この世の誰か1人の心でも動かせたという経験に感動した。

でもその時に、僕が欲しかったのは"コレ"なのかもしれないと思ってしまった。
この成功体験を糧に「もっと何十人何百人何千人に自分の考え方を認めさせたい」という強い欲求は湧いてこなかった。
「嬉しい」で満足してしまってる自分がいた。

自分が色々間違っていると自覚した今、それはより顕著になった。
間違いに共感をさせてしまうかもしれないと思うと、これ以上誰かに自分の考えを認めさせたいと思わなくなってしまった。

だから、僕が自己表現を続けるためには別の理由がいる。
その理由が見つからなかったら、別に発信なんてしなくてもいいやって思っていた。

でも、この前、あるきっかけで僕の文章を読んでくれた友人から「この文章どっかに投稿したりしないの?」と言われた。
それが、純粋にとても嬉しかった。
その瞬間、ふと思い直した。

別に、何百人何千人に理解してもらわなきゃいけないわけじゃない。
それを目指さなきゃいけないわけでもない。
1人にでも刺さればいいんだ。

あの時の"嬉しい"という感覚を、もう一度味わいに行くだけでもいいじゃんか。

そう思い直し、寝かせていた下書きを久しぶりに読み返したら、伝えたいことのかけらが沢山眠っていた。

だから、これからは「誰かに少しでも刺さればいいな」と思いつつ、デジタルタトゥーになるかもしれない覚悟で、文章を投稿していきたい。

これからnoteを読んでいて、以前に書いたこととの矛盾を発見しても、目を瞑ってくれるとありがたいです。

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