エレベーターと大人の階段

エレベーターに乗るのが怖かった。
小学校低学年の頃にテレビの特番で見た、地震でエレベーターに閉じ込められた人の再現Vが妙にリアルで怖かったことが原因だ。
自分が乗っている間に止まったらどうしよう。
そう思うと、おいそれとエレベーターに乗る気になれず、8階に住んでいる友達の部屋にも僕は必ず階段で向かっていた。

でも今、自分が住んでいる3階に行くのですらエレベーターを使ってしまう。
だって、階段登るの疲れるじゃん。

いつからエレベーターに当たり前に乗り出したんだろうか。
あの頃抱えてた恐怖は、原因まで覚えてるくらい強烈だったはずなのに。

こんなことは他にもある。
例えば初めてお寿司屋さんに連れてってもらったとき。
ワサビ抜きという裏技を知らずにそのまま寿司ネタを食べた僕は、モロに鼻ツーンを食らった。
痛すぎて泣いてる僕を尻目に、「それがいいんだよ」とか言って微笑む親に怒りすら覚えたのを記憶している。
あの時は「一生ワサビなんか食べるもんか」って考えたはずなのに、今はお寿司にはワサビがないと物足りないと思っている。

幼少期からカレーが大好きだった。
でも付け合わせで乗せられる福神漬けが本当に邪魔で、綺麗に福神漬けだけを残して食べていた。
だが、今は福神漬けが乗ってなかったらテーブルに備え付けられてるBOXから福神漬けを取り出して食べてしまう。

ふと、こういう行為に抵抗がなくなったことに気づき、寂しくなることがある。
子供の頃の新鮮な感情をなくしているのかもしれないなぁと。
明確に境界線は分からないけど、子供の頃の新鮮な違和感というものは日毎に消えていく。
それを繰り返して世界に"当たり前"を増やしていくことが大人になることなんだろうなって思う。
きっと今は美味しさのわからないビールも仕事終わりに飲みたくなる日が来るんだろうし、当然のように趣味に割く時間が減ることを受け入れていくんだろう。

だけど、僕はいつまでたっても新鮮に違和感を感じていたい。
子供の心をなくしたくない。
自分が今持ってる違和感の賞味期限はいつまでなんだろうか。
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この前、5年ぶりくらいに8階に住んでいる友人の家を訪ねた。
そのときに気づいたことがある。

え、8階ってこんなに高かったっけ。
普通に怖い。
でも懐かしいなぁ、この感覚。

あの頃と違ってエレベーターで向かったけど、8階からの眺めにはまだあの頃と変わらない新鮮な怖さを感じた。

よくよく考えてみれば
今でも高いところは苦手だし、
寿司屋で出てくるガリは好きになれないし、
カレーのルーとご飯をぐちゃぐちゃに混ぜて食べる癖は治らない。

子供の頃から変わらないこともあるじゃないか。

自分の中で変わる感性と変わらない感性がある。
変わっていく感性は僕に必要だったもので、変わらない感性は僕の根幹を形成してるもの。
そう考えれば、子供の頃の新鮮な違和感がなくなっていくことも意外と悪くないのかもしれない。
そんな風に思えた。

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