『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』村上龍
コンビニ、居酒屋、公演、カラオケルーム、披露宴会場、クリスマス、駅前、空港と日本に数多くある場所。そこに向かったり思いを馳せる個人が存在する。
その個人的な希望についての話。
どこかへ行きたい欲求をよく解剖してみると、土地に関しての希望は薄く、土地に置かれた人々への拘りが強い場合がある。どこかへ、と言っておきながら結局どこでもいいわけじゃない。そういうことに気づくのにボクはすごく時間がかかってしまった。
建物と人との結びつきは粘着質だ。ボクらは屋内に居ながら世界と自由に繋がり、動かずに情報を稼ぐことができる。身体が透明になってゆく。VRなんてものもできて拍車がかかる。でも、本書では実際に剥き出しの身体を運動させて場所に触れる。情景描写は写真と日記を織り交ぜたように鮮明さと適度な距離を持って伝えている。
登場人物は決しておしゃべりな人間ではなく、思考は働かせるものの口には出さない傾向にある。無意識の無感覚の言語化が適切に着々と行なわれていく。感情の塊を吐き出すのではなく、事実を淡々と述べてゆく。まるで自分がどこにいるかを記しているかのように。目の前を流れる人生が自分のためにあるとは思えないときこそボクらは現在地を注視していた方が良い気がする。そこから一変しようともせずとも、いま自分の居る場所だけは確かめておかなければならない、そうしないと、どこに行っても「ここじゃないどこか」をあてもなく探し続ける羽目になる。
作中では何か新しいことが起きるわけじゃない。矛盾を承知で言うが、新しいことなんて多分ずっと昔に発生しているんだ。そして、それはいままでとこれからも続いていく。緩やかに海へと向かう川のように。