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「既知」が「未知」になる、その瞬間が好き 長島美紀(SDGsジャパン理事)12人のすてきな探究人インタビュー<第1回>

ジェンダー問題を追求し、その分野での調査研究や政策提言を行う中、偶然出会った生物多様性の領域から「未知に出会う」楽しさを知ったという長島美紀さん。そんな長島さんの子ども時代や、今に至る体験を通じた独自の「探究」を伺います。

長島美紀:政治学博士/一般社団法人SDGs市民社会ネットワーク 理事/認定NPO法人Malaria No More Japan理事/国際NGOプラン・インターナショナル・ジャパンアドボカシーグループリーダー/女の子のリーダーシップに関する調査提言、ジェンダー課題に関する調査研究・政策提言。内閣府男女共同参画推進連携会議有識者議員・W20ジャパンデレゲート(2024年より共同代表)

1940年代を超えてきた一番ケ瀬康子さんの力強い言葉。私は、そこに応えられているのだろうか。それを考えているうちに次第に今の道を選んでいったんだと思います。

W20(G20のエンゲージメントグループ)で日本代表を務める長島さん

現在の活動内容をを簡単に教えてください

同時に複数の仕事をしています。プラン・インターナショナル・ジャパンというNGOでジェンダーに関する政策提言と、それに資する調査研究をしています。それからSDGs市民社会ネットワークという社団法人で、初期のころから関わって普及啓発をしています。そのほか、マラリアに特化した認定NPO法人Malaria No More Japanでも設立時から理事をしています。

日本では一般的に知られていないキャリアを選んだのはなぜ?

もともと国際協力、政治には関心をもっていたんです。国際関係に関心があるなかで、修士論文のテーマに難民問題を取り上げて。そこで縁あってUNHCRの駐日事務所でインターンをしました。そして博士論文ではジェンダー問題を扱いました。そんな風に、テーマを追求しているうちにたどり着いた感じですね。

ジェンダー問題に関心を持ったきっかけは?

私は女子大の附属小学校に通っていたんです。当時の一般的な女子の教育は良妻賢母という雰囲気がまだまだ残っていた時代だったんですが、その当時から、「世の中の役に立つ女性を育てる」という小学校でした。
高学年になったある時、全校生徒が参加して外部講師を招いた講演会を聴く機会があったんですね。話の内容はほとんど覚えていないんだけど、その登壇された方がこぶしを振り上げて「女よ立ち上がれ!」って叫んだんです。すごく印象深く、なんだか圧倒されて呆然となったことを覚えています。

後に大学院に行ったとき、何気なくその思い出話を教授に話したとき、その講演をされた方は有名な社会福祉学者で女子教育の道を開かれた一番ケ瀬康子さんだったのですが、「一番ケ瀬先生が小学生にそんなことを仰ったということを聞くと涙がでるわね」と言われたんです。そこでようやく気づいたのが、一番ケ瀬さんが「女たちよ立ち上がれ」私たちに叫んだ当時はまだ1980年代。ようやく世の中が男女雇用機会均等法を通して就職における平等が少し出てきたころ。しかし世間の空気感としてはまだ男女平等にほど遠いころでした。だからこそこぶしを振り上げたのだと、ようやく理解したのです。

私は高校まで女子高でしたし、先ほど述べた校風だったので、「女だから」という洗礼を大学で初めて受けました。男女の差をいろんな場面で感じることになったんですね。そこから推し量ると、一番ケ瀬さんが学ばれた1940年代はいかばかりか。私は、そこに応えられているのだろうか。それを考えているうちに次第に今の道を選んでいったんだと思います。

のめりこまない性格で、冷静だと言われます。そこがコンプレックスでもあったりしますけど、客観視は大事。100人いれば100通りの見方がありますから。

どんな幼少期を?

私の両親、とくに母に言わせると「育てた覚えはない」と(笑)。とにかく気が強い、我が強い、主張が多い、うるさい子だったんです。そして、放っておくとずっと本を読み続けている子でした。だから「放棄していた」んだと。小学校はすごく嫌でしたね。授業にあまり参加していないというか、先生に求められることに応えるということをしない、すごく冷めていました。

周りの子はみんな、授業中一所懸命になって、先生に当ててもらえるように何度も手を挙げてるんですよね。でも何回かに一回しか当たらないじゃないですか。なんかそれを見てて、手を挙げる労力が無駄だなと。で、誰の手も挙がらないような難しい問題の時に先生が私を指すんですね、で、そうすると答えるわけです。こんな子は「見たことがない」と言われていましたね。学校の勉強がつまらなくて、なんでこんなことするのかといつも思っていて、塾にだけに通わせてくれと親に言って却下されたりしていましたから、扱いづらい子だったと思います。

ご自身でどんなキャラだと思われますか?

自分はのめりこまないというのが特徴なんだと思います。私が働いている業界では、これが正しいんだ、という主張の強い方が多くいます。でも、実際は白黒と分けることが難しいグレーがいっぱいあるんです。で、そんな中で折り合いをつけてうまく渡っていくタイプの人もいるんですが、これを否定する人も多くいます。私はこういうことについてすごく客観視していて、ラディカルにはならないんですね。

よく「本質」という言葉を使う人がいますが、私はあまり「本質」っていう言葉を使いません。本質ってどこか「正しさ」を表す言葉だと思うんですけど、100人いれば100通りの見方がある。自分の中ではこれが正解と思っても、「これが本質」と表現してしまうとそれ以外を排除することになりますから。

アフリカなどの国際協力や支援事業なんかでも、そこに思い入れを強く持つ人が多いんですが私は、その思い入れも強くならないんです。なので「長島さんって冷静にみてますよね」と言われます。感情をこめてみていない。時としてそこがコンプレックスでもあったりしますけど。

思い返せば小学校の頃に、通学電車の車内で同級生と騒いで乗客に通報されて、校長室に呼び出されたことがあったんですね。その時、私以外の二人は泣いたり、ふくれたりしていたんですが、私だけは冷静で、どのように騒いでいたのか、淡々と説明したら私だけ叱られたりしました(笑)。

遅刻したときもそう。叱られた子たちは遅刻の理由をきかれたときにも、「すみません、もうしません」と謝るんですけど、私はその理由を述べちゃう。「チャイムが聞こえなかった。あの体育館ではチャイムが聞こえない。それがおかしい」と言ったら怒られました。昔からその癖があるんですね(笑)。

周囲の環境から期待されていた未来はありましたか?

特になかったですね。というよりも、自分でどんどん決めちゃっていましたから。学校は小学校から大学まで繋がっていたので、周りはそのまま内部進学していくのが普通なんですけど、私に対しては「あなたは外部大学に出るんですよね」と言われていました。こっちはまだ何も言っていないのに(笑)。でも、自分でも外に出るんだろうなと思っていましたね。なので、せっかく別の学校に出るなら大学院まで行こうと思っていました。

そういう進路についても、親からは異論を挟まれることもなく結局ドクターまで出してもらったわけですが、親戚からは「なぜ美紀にそこまで教育投資をするの?」といわれていたそうです。その時父親は「あいつは普通の会社で働けないだろう」というコメントしたそうで(笑) それじゃあ美紀には、生きていけるのに必要なスキルを身に着けさせるしかないだろう、と思ったんだと後からきかされました。

私は自己肯定感が強いんです。でも「自分が何者になれるのか」が見えなくなって、それがグラついたことがありました。

政治への関心はいつから?

中学くらいの時だったと思いますね。とにかく論述が多くて、文章を書かせる学校だったんです。国語でのエッセイや、高校の歴史の試験は論述しかありませんでした。そこでテーマになる政治的な問題に関心が高まって行ったんだと思います。文章を書くのは得意だったのでよく自分の出した小論文がクラスで最高得点をとったりしたのですが、中学の国語の先生に「このクラスで一番は長島さんです。でも私が一番嫌いな文章も長島さんです。」なんて言われたり。どうも、書いていることが理屈っぽいんですね。いわゆる「エモい」文章が書けない。

そのころと今とでは変わりましたか?

あまり変わらないと思いますね。私は自己肯定感が強いんです。先生にはずいぶんなことを言われていますけど、当時そんなに気にしていませんでしたね。「お前は下品だ」とか小学校の担任から言われていたんですけど、「まったくこれだから老人は」ぐらいに思っていましたから(笑)。

自己肯定感がぐらついたことは?

ありますよ。博士課程の時に、自分が何者になれるのかが見えなくなっていて。そのころに、ぽきっと折れた感じがしました。それまでは、自分はやりたいと思えばきっとかなう、という風に信じて進んできたんですが、ままならないこともあるのだと気づいたんですね。それから働き始めたころに仕事でだんだん行き詰っていたころ、たまたまその時に足の靱帯を切る怪我をして入院もしたんです。入院中に、久しぶりに思いっきり本を読めたんですが、その時に「そうだ、自分は本を読むのが好きだったんだ」と気づいて。これが立ち直るきっかけをくれました。ここでバランスのとり方、つまり自分が元に戻る術を身に着けていったんだと思います。

「学び」が面白い!と思った体験を教えてください

博士過程の終盤はジェンダーに基づく迫害の本ばかり読んでたんです。博士号取得することに偶然のご縁で、いままでまったくかかわったことの無い生物多様性の仕事が舞い込んできました。日本各地の里山だとか、島だとかに行くことになって、農業の人に話を聞いたり。全然違うフィールドで、こんなに自分が知らないことがいっぱいあるんだ!ということに気がつきました。当時はマラリアについてもまったくの門外で。そちらにはそちらの専門の人がいるわけですが、躊躇はありませんでした。
これはきっと、自分がジェンダーの分野でドクターまで取ったということが関係していると思うんですが、一つのスペシャリストとして、別分野のスペシャリストに対しての敬意が持てたんだと思います。

好きと得意がどれだけ色んなところと繋げられるか。「既知が未知になる」それを問い続けるのが探究。

このインタビューを通じて、「探究」という言葉を再度見つめ直して見ると、どんな言葉が出てきますか?

「既知が未知になる」ということじゃないでしょうか。知っていると思っていたことが知らないことになる、知らないことに繋がって広がっていく。そこに出会う、この瞬間が好きです。

好きなことやったらいいんだよ、に加えて何か加えて言うとしたら、何?

好きなことを見つけようね、というのはもちろんそうですが、加えて、自分が得意なことも見つけようというのも大事だと思いますね。好きと得意は違うので。たとえば国際協力の分野が好きだったとして、それは必ずしも現場に行って働くこととは限らないじゃないですか。現場よりもリサーチのほうが力を発揮できる人だっている。なので、好きをテーマに、得意をそのテーマの中で活かすというふうにするといいんだろうと思いますね。この好きと得意のところがごっちゃになっている人には、「落ち着け!」と言いたい。得意な部分を見つめていくと、好きなこととの接合部が見えるんだと思います。

好きと得意がどれだけ色んなところと繋げられるかというものも、大事だと思います。ジェンダーというテーマはいろんなことに繋がっています。貧困ともエンパワーメントとも経済とも投資のトレンドともつながっている。いろんな分野に首突っ込んだらいいと思います。1か所だけでなく、いろんなところに目配りをしていくことがヒントになるんじゃないかな。

私の本棚はカオスですよ。いろんなジャンルを並行読みしたりしますから。マンガだって映像だっていい、思いこまずに知らなかったことに出会っていく。「既知が未知になる」それを問い続けるのが探究なんじゃないかと思います。

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みんなで作ろう世界探究人宣言プロジェクト

オシンテックは創立記念日(6周年)の2024年11月22日から1年間、みなさんの周りにある探究を集め、「みんなが探究人になって世界を変えていく未来」を目指す『世界探究人宣言』を作っていこう、という企画を開始しました。

このインタビューはオシンテックが選ぶすてきな探究人12名にインタビューを行い、プロジェクトの一環として、それぞれの思う「探究」を集めていくものです。

本シリーズは、毎月22日に公開してまいります。次回もぜひお楽しみに。

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