第7回「意見にはポジションが要る」
クリティカルリーダーのかずえもんです。前回のクリティカル・リーディングは文章全体の「筋立て」を捉えてみましたが、今回は「意見なのかどうか」に着目します。
題材にするのは、猛暑と熱中症に関する社説です。
ファクトに線を引きながら読んでみよう
意見文を読むコツとして、「どこまでがファクトで、どこからが意見なのか」を分けてみるという方法があります。
次の社説のどこがファクトなのか、線を引いてみましょう。
ファクト部分に線は引けましたか?
「ファクト以外」を抜き出してみる
とてもファクト部分が多い文章だったのではないでしょうか。ここでは、ファクトを抜き取った残りを拾い出してみます。
以上です。
反論が出ない話題提供
熱中症への警戒が必要だ、こまめに水分を取るなどの基本的な対策を忘れないよう、周囲の目配りが欠かせない。冷房などを活用して命を守ることが最優先だ。という言葉に異論を差し挟む余地はあまりありません。
こうした文章は、意見文というよりも、「話題提供」と言えそうです。
いろいろな社説があるので一概に言えませんが、なんらかの立場をとって、(つまり反論がありえる状態で)主張を行う意見文が多い中、この社説はそのような意見文とはいえない文章です。
では、意見とは何でしょうか。
意見には立場(ポジション)がある
意見には、なんらかの立ち位置があります。例えばこの社説に、もしもこのような議論の軸があったらどうでしょうか。
「酷暑が予想されるときでも、通勤はするべきか」
「冷房のための電気料金が払えない世帯に対して補助を行うべきか」
「ひっ迫する電力を補うために、老朽化した原子力発電所も稼働させるべきか」
仮に上記のような軸が存在していた場合には、YesかNoの立場を取り、その根拠を説明していくことで意見を述べることができます。
優しい日本人
大好きな日本映画を一つ挙げて、と言われれば、私は迷わず、三谷幸喜監督の『12人の優しい日本人』と答えるでしょう。
これは、「もし日本に陪審員制度があったなら」という架空のシチュエーションで、陪審員に選ばれた日本人がある殺人事件について討議するだけという、ごくシンプルな筋の映画です。
舞台は陪審員室と廊下と中庭とトイレだけ。それでも観客を最後まで惹きつけ、驚きのラストに導く脚本の腕は圧巻です(ネタバレになるのでこれ以上書けません。ぜひご覧くださいね)。
タイトルにある「優しい日本人」は、じつにうまい表現です(アメリカ映画の『12人の怒れる男』のパロディではありますが)、日本人特有の相手を傷つけまいとする優しさと、その日本人的な優しさゆえの議論下手が面白おかしく描かれていきます。
登場人物の一人に、メモ魔の女性(陪審員5号)がいます。彼女は、意見を求められると、やおら厚手のメモ帳を開き、克明に記録した事件のデータや裁判中の被告の発言などを述べます。そしてメモ帳を閉じます。
ほかの陪審員に意見は?と問われても、「これがわたしの意見です」と述べるだけ。データを開陳し、それを「意見」だという。
ここで思わず笑ってしまうのは、「ああ、そういうことあるな」と、身近に思い当たる節があるからなのでしょう。
意見を言うには勇気と訓練が要る
意見を言うということは、何らかのポジションを取ること。つまり別の立場の人からの反論を受ける位置にいることです。これは、少々勇気のいる行為でもあります。
しかし、誰からの反論も受けない話だけすることに、どれぐらいの意味があるのでしょうか。そこに魅力はあるでしょうか。
クリティカルリーディングは「批判的に読む」行為ですが、文章中の意見を客観的に整理しながら、読み手側の軸で読むので、自分の意見を言う訓練にもなります。
必ずしも相手を傷つけたり、ひたすら論破するのではなく、相手の意見を聞き届け、こちらの主張も行いながら、一緒に答えを作っていくという、クリエイティブな議論ができたら素晴らしいと思いませんか。
すべての優しい日本人が、自分なりの意見が言えるようになるといいですね。
それではまた次回。
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