吉本ばななさん最新エッセー集『私と街たち(ほぼ自伝)』を読んで
吉本ばななさんの新作エッセー集、
『私と街たち(ほぼ自伝)』。
(これからこの本を読もうとされている方にはネタバレとなってしまうので、ここでは「まえがき」と、最初の作品についてお話ししようと思います)
まず、表紙。
眼帯をした少女時代のばななさんが
片眼でこちらを見ている。
その視線の、なんと力強いことか。
タイトルに付いた(ほぼ自伝)、
この「ほぼ」に引っかかりながら表紙を開く。
最初に「まえがき」がある。
次に、こんなことが書かれている。
私はこの部分をぼーっと読んでしまったため、
本文に入ってからあらぬ違和感を抱いてしまうことになる。
具体的には
最初の作品『甲州街道はもう春なのさ』。
後半に「とても仲のよい友だち」が登場する。
(ばななさんのこれまでの作品に「占い師の友達」が何度か登場するのを読んでいたので、
端から“ああ、あの人ね”という認識があった)
その人が体調を崩し、やがて歩くことも出来なくなる。
電話にも出ないので、ばななさんは彼女の住まいであるマンションを訪ねる。
この文章に、私は固まってしまう。
“名誉のために書かない”← 私がもしもばななさんの立場だったなら、こんな風には書けない。いや、書かない。
名誉のために書かないという一文は、想像力を掻き立てて余りある。
永年、カウンセラーとして活動してきた人の名誉も、尊厳すらも粉々に砕け散らせてしまうのではないか――
これは――ないな――
『キッチン』から始まり、永年読み続けてきた私の心の中の「吉本ばなな」がガラガラと音を立てて崩れ落ちそうになる。
しかし、そこで簡単に崩れないのが年月のなせる業―-信用―-と言い換えても良いだろうか、
心を落ち着かせ、一度閉じた本を再び手に取る。
表紙の、眼帯のばななさんがこちらを見ている。
「ほぼ自伝」。
眼帯の眼から出た吹き出しがそう言っているではないか。
促されるように「まえがき」を読み返した。
ひとつの作品をどんなふうに読もうが、まったくそれは読者に与えられた自由なのだとしても、
その作品が
エッセー、あるいは自伝、つまりノン・フィクションなのか、
フィクションなのか
そこだけは、認識して作品に向き合いたい、と、個人的にはそう思う。
しかし、
そこが吉本ばななさんの、ばななさんたる所以なのかもしれない。
“ほぼ”もありか。
あっても良いし、
「まえがき」には、「私はまだまだ書いていきます」とある。
それを待ちたい、と思った。