池澤夏樹著『キップをなくして』 文庫版解説文「理解も誤解も読者の広大な自由」
小説を読んだとき、読者はそれぞれに自分の好きな手掛かりに着目して多様な読み方をしていく自由がある。
何を読み取るか、何を読み取らないか、どんな理解をするか、どんな誤解をするか、それはまったく読者にまかされた広大な自由だ。
池澤夏樹著『キップをなくして』 角川文庫版「解説」旦敬介氏
『キップをなくして』は、2005年の夏に刊行された小説であり、
私はこの本を、たしか2010年頃に、図書館から借りて読んでいる。
2020年夏、
その本が文庫化された。
2020年夏限定の表紙カバーだそうだ。
手に取り、見ると、限定カバーの下にもう一枚、カバーが掛かっている。
この表紙が、10年前に読んだ本と同じものなのか、
はっきりとは思い出せないが、どこか懐かしさを感じさせる。
この表紙だけでも欲しいと思い、購入した。
天気の良い日だったので、近くの公園で半分、
残りは家に帰り、たっぷりと淹れたコーヒーとともに
読んだ。
10年という時間経過で、私の記憶はあらかた飛んでしまっていたが、
重要な部分―-ミンちゃんという“死んだ子”が登場する場面など――は、
わりあいしっかりと憶えていた。
ストーリーの説明に代えて
裏表紙のコメントを引用する。
山手線でキップをなくした子が東京駅に集められ「駅の子」として電車通学の子供の安全を守る。いろんな子供が集まってきて、勉強できる子が下の子を教えたり、いじめで不登校になった中学生が居場所を見つけたり、みんなの成長の姿を描いていく。
生と死の問題も、子供に本当にわかりやすく教えてくれる。名作です。
スタジオジブリ 鈴木敏夫氏
たしかに。
しみじみと、胸が温かくなる小説だった。
何よりも、既に死んでしまい存在しないはずの「ミンちゃん」の存在が静かに胸を打つ。
つい最近、池澤夏樹氏の他の著書を読了した私は、
小さなこと(言葉)が気にかかり、
ふと思い立ち、『キップをなくして』を書棚から引っ張り出した。
気にかかっていたことの答えが見つかり、
ついでにパラパラとページをめくり、
最後6ページの「解説」を読んだ。
私は普段、「解説」は読まないのだけれど。
その解説は、
冒頭に記した文章、
どんな理解をするか、どんな誤解をするか、それはまったく読者にまかされた広大な自由だ。
からはじまり、
こう言い切って終わる。
すっかりファンタステイックな物語であるように見えて、これはある意味できわめて現実に密着したリアリスチックな物語だったのである。
つまり、
この物語は2005年に書かれたにも関わらず
舞台は1987年の夏だ。(その点は、私も「おや?」とかすかながら気になった)
著者が何故この物語を、1987年という時代設定にしたのか、
そして何故、子供たちに東京→函館までの旅をさせたのか――
それは国鉄が民営化される前の、最後の夏であり、
青函トンネル開通前の最後の夏だったから。
著者は、子供達を東京駅から列車に乗せ、連絡船に乗せることで、鉄道や連絡船の最後の姿を描いてみせたのだ、と。
なるほど。
腑に落ちる。
「ぼーっと読んでるんじゃないよ」と、喝を入れられそうだ。
年月を追い、表でも作りながら読み進めたら、またそれも面白そうだ。
この解説には
「ミンちゃん」も、「いのち」も「心」も一切出てこない。
「現実に密着したリアリスティックな物語だ」と、広大な自由の上に立ち、
断言している。
ある意味において凄い。
そして、
改めて考えさせられる。
小説を読むということにおいて、
その内容から何を感じとり、
どう受け止めるのか
何が理解で何が誤解なのか?
それを判断するのも、
それこそ「広大な自由」なのだろう。
ぼーっと読んでいても、叱られる筋合いはないのだ。
文庫本を手にしたら、
ときに[解説]を読むのも悪くない、
と思う。
最後までお読みくださり、
ありがとうございます。