谷崎潤一郎のこと
少し前まで、谷崎潤一郎は私にとって「好きな作家の一人」に過ぎなかった。
遥か昔、高校生の頃に「刺青」など初期の作品を収めた短編集を読んだ記憶があるが、物語の内容をようやく思い出すことが出来る程度で印象は薄く、その後は「潤一郎訳源氏物語』を全巻読むものの、それは源氏物語という作品そのものに惹かれていた為ではないかと思う。
私の思いに変化が生じたのは今から11ヶ月前のことだ。
新聞の読書欄で、現代詩作家の荒川洋治さんによる谷崎潤一郎作「瘋癲老人日記」の評文を読んだことに始まる。
〈読んで楽しい。あとから思うと、いっそう楽しい〉
こんな書き出しで始まる荒川氏の文章は短文ながら素晴らしく、私をその本の読書へと誘う力に溢れていた。
こうして私は長編小説「瘋癲老人日記」を読むことになる。
「瘋癲老人日記」は谷崎の最晩年、死の三年前に刊行された。
その頃の谷崎は「高血圧症」の影響で右手の痛みに苛まれ、執筆は口頭で行っていたという。
この小説の主人公である卯木督助は裕福で教養豊か、体のあちこちの病と痛みに苦しみ「今日は死ヌンヂャナイカナ」と思いながらも夢を追う日々を送っている「不良老人」だ。
つまり督助は谷崎潤一郎その人を写した鏡であり、漢字と片仮名のみで書かれた日記は督助の名を借りた谷崎潤一郎の言葉を綴ったものだろうと思えた。
この作品をきっかけに、私にとって谷崎潤一郎は「好きな作家の一人」には留まらなくなった。
(一年前noteに書いた記事)
芋づる式とはまさにこのことか
この11ヶ月のあいだ、私は谷崎潤一郎の作品を次から次へと読んだ。
1 谷崎潤一郎、渡邊千萬子往復書簡
2 『鍵』
3 『少将滋幹の母』
4 東西味くらべ
5 『細雪』
6 『春琴抄』
7 『蘆刈』
そして今、『春琴抄』と『蘆刈』が一冊に収められた小さな本が手元にある。
『春琴抄』も『蘆刈』も、それぞれ約100ページの作品だが、中身は200ページ分もあろうかと思えるほど、ギッシリと詰まっている。
何の予備知識もなく読み始めると、最初の1ページ目で面食らうことになる。
まず、改行が無く、
句読点が殆んど打たれていない。
会話の「 」が殆んど省かれている。
改行を省いている分、文字はページの端から端を埋め尽くし
句読点の無い文章はとても読みづらい。
読みすすめていくためには相当な集中力が必要になる。
しかし
苦労しながら中盤(およそ50ページ)あたりまでたどり着くうち、
いったい何処からどうしてこんな清々しさが湧いてくるのか――
そんな思いが胸を満たすようになる。
句読点とは一体何なのか?ーとさえ考えさせられる。
解説者は、この二つの小説を「谷崎潤一郎の実験的な作品」という。
なるほど、思えば谷崎は他の作品の中でも数々の実験をしているではないか?
『細雪』は最初から最後まで大阪・船場言葉。
そして『瘋癲老人日記』では督助の日記部分が漢字と片仮名だ。
「実験の結果はどうでしたか?」と谷崎に尋ねてみたい。
そしてもし彼が今も生きていたならば、今度はどんな実験をしたのだろうか。
そんなことが気になってならない。
※ヘッダーの写真は星川作のドライフラワーです。