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読書は精神を耕すからこそ、書物の質にこだわる

 今日、ショウペンハウエルの『読書について』(岩波書店)を読んだ。

 ショウペンハウエル先生は例のごとくズバズバと自分の愚かさを指摘してくれる。今日心に留まったのは以下の部分だった。

 一般読者の愚かさはまったく話にならぬほどである。あらゆる時代、あらゆる国々には、それぞれ比類なき高貴な天才がいる。ところが彼ら読者は、この天才のものをさしおいて、毎日のように出版される凡俗の駄書、毎年はえのように無数に増えて来る駄書を読もうとする。その理由はただ、それが新しく印刷され、インクの跡もなまなましいということに尽きるのである。このような駄書はいずれ二、三年たてば、打ち捨てられ、嘲罵される。そしてその後は永久にみじめな姿をさらして、いたずらに過ぎし世の戯言を嘲笑する際の、材料として引かれるにすぎない。

 自分の読書人生を考えると、本当に、名著と呼ばれるものよりは新しいものを追っていた。だから地に足がつかなかったのだな、と思い当たった。


 これと同じことはあらゆる分野でもいえるのではないか。

 それぞれの分野、それぞれの地域には、巨匠、重鎮と呼ばれる偉人がいるはずで、彼らの才がどれほどかはさておいて、時代の荒波に流されずに後世まで語り継がれている人間の足跡から学ばずして何を学ぼうか、というところである。

 ふと考えてみると、今の教育界で出版されている本や、SNSで少しばかり有名となった人たちのうちで、10年後もその名が語られているものはどれくらいあるだろう。

 今は消費の激しい時代だ。人間さえも消費されている。「時の人」となった人を使い、誰かが利益を得るシステムが様々なところで運用されている。

 教育界で数十年以上名前が残っている、というと、極めて少ない。

 僕が読んだことのある本の著者では、斎藤喜博、向山洋一、大西忠治、野口芳宏、有田和正、遠山啓、大村はま、森信三、東井義雄、…

 これらの教育実践に学ばずして、最新の教育書にばかり目を通していても、幹の部分が育たないのではないか、と考えさせられた。


 地に足のついた学び方をしなければならないのだ。

 パラパラとめくるだけで概ねその内容が推測できてしまうような本ではなく。

 読むのに抵抗を感じるような、重く、刺激的で、かつ引っかかるところばかりの本を読もう。

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