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イブキちゃんの聖書入門 #16「旧約聖書と新約聖書の関係」

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「見よ、その時代が来る―主のことば―。そのとき、わたし(神)はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。」
(エレミヤ書 31章31~32節途中まで)

「聖書には、旧約聖書と新約聖書という2つの区分がある」ということは、もしかしたら皆さんもどこかで耳にしたことがあるかと思います。

しかし、旧約聖書って何?

また、新約聖書って何?

と問われれば、明確に正しく答えられる、という人は、一般的に見て、少ないのかも知れません。

まして、その両者の繋がり、関係性について、筋道の通た回答を用意できている人は殊更に稀でしょう。
(実のところ、「キリスト教」とされる括りの中にいる人たちですら、その理解には不確かなところが多かったりします)。

ある人は「旧約聖書は古い版の聖書で、新約聖書は新しい版の聖書だ」と考えているのかも知れません。
またある人は「ユダヤ教の聖書が旧約聖書で、キリスト教の聖書が新約聖書だ。だからキリスト教は旧約聖書を認めていない」と信じているのかも知れません。
またある人は、例えクリスチャンでも、「旧約聖書は『終わった時代の古い聖書』だから、クリスチャンは『新しい聖書』である新約聖書だけを読めば良い」と考えてしまっているのかも知れません。

恐らくそれらの思いの背後には、「旧約・新約」という言葉に対する不理解と、またキリスト教界が伝統的に作ってしまった「自身の信仰のユダヤ的(旧約聖書的)ルーツをなかったものにする」障壁の作用があるのではないでしょうか。

⭐︎ということで、今回は「旧約聖書と新約聖書の繋がり①」として、先ずは「旧約・新約」という言葉の意味について解説してみたいと思います。

またそのことをきっかけとして、聖書の神のその深いご性質について前回までよりも更に深く掘り下げ、神の啓示の書である聖書を知る喜びを皆さんと共有することが出来たら一層幸いです。

「旧約・新約」の「約」とは、その字の通り、「翻訳」の「訳」ではありません。

「約束」「契約」の「約」​であり、つまり「旧約・新約」とは、「旧(ふる)い契約」と「新しい契約」という意味です。

結論から言えば、「旧い契約についておもに言及したものが旧約聖書」で、またそれに呼応する形で「新しい契約について言及したものが新約聖書」である、と言うことが出来ます。

そこで問題となるのは、「ではその契約とは一体何?」ということだと思います。

⭐︎ここで話を進める前に、一旦、冒頭に掲げた聖書箇所に目を移しましょう。

「見よ、その時代が来る―主のことば―。そのとき、わたし(神)はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。」
(エレミヤ書 31章31~32節途中まで)

この聖書の言葉は、旧約聖書のエレミヤ書という預言書に記されてあるものです。

エレミヤ書は紀元前627~585年にかけて、今のイスラエル共和国がある南王国ユダで預言者(神の言葉を人々に伝える者)として活動していたエレミヤという人物によって書かれました。

イエス・キリストが地上に誕生される600年以上も前の話です。

当時のユダは国家として、礼拝すべき真の神を知っていながらも、そうではない偶像を礼拝し、預言者の警告を聞かない堕落した状態に陥っていました。

そのような中で、エレミヤは酷い迫害に遭いながらも、ユダの民、また指導者に向かって、悔い改めに導く神の言葉を伝え続けたのです。

と同時にエレミヤは神から「どのようなことがあってもわたし(神)はイスラエルの家とユダの家(イスラエル民族)を見捨てない。
必ずイスラエル民族はわたしに立ち返る」
という励ましの言葉も受けていました。

そのことについて記したものが、この引用箇所です。

⭐︎この箇所にも「新しい契約」、またそれに対応するように「彼らと結んだ契約」という単語が出て来ていますが、先ずはそのことからも汲み取れることは、「聖書の神は人間と契約を結ばれる神である」ということです。

これは非常にユニークかつ、臨場感や生命の躍動感を見ることが出来る神概念です。

実際に、それがエレミヤを始め、多くの信仰者たちの持っていた「未来への希望」の裏付けとなっていました。

聖書信仰における希望の根拠は、誠実なる神が「契約の神」であることに掛かっています。

このことは聖書を理解する上で非常に重要な要素となるので、是非とも覚えておいて下さい。

★どのような社会においても、またどのようなスケールにおいても、契約や取り決めを交わす時は、必ずその組織の「代表者」が立てられます。

代表者同士の合意が、それぞれの組織に属する者全体に影響を与えるのです。

そのことは聖書が指し示す契約にも適用されます(そもそも契約という概念の創造者は聖書の神です)。

⭐︎新旧約の聖書には合計で8つの契約が登場します。

その8つのそれぞれにも、人間側に「代表者」が立てられたのですが、その内の始めの3つの契約を除いて、残りの5つの契約はアブラハム、またアブラハムの子孫であるイスラエル民族が、全人類の「代表者」として神から選ばれ、神と契約を結びました。
(いずれまた、その聖書的8つの契約についても取り上げ、詳しく解説したいと思います)。

このエレミヤ書で言及されている「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない」「契約」とは、モーセの十戒などで知られる「モーセ契約」(別名:シナイ契約)です。

それが「旧い契約」、つまり、旧約聖書の「旧約」です。

その契約により、イスラエルの民は「モーセの律法」の支配下に置かれ、またイスラエル民族ではない他の民族(異邦人)は「モーセの律法の支配下にはない民」としてイスラエル民族と区別されました。

モーセ契約が有効に機能している間のことを「旧約時代」とも言われますが、その間はイスラエル民族はモーセの律法に従って生きることが課せられていました。
それは与えられたカナンの地で物理的、霊的な繁栄を享受するという神の祝福を味わうためです。

⭐︎モーセの律法は613あり、偶像礼拝の禁止などが命じられていたのですが、しかしエレミヤの時代のイスラエルの民はことごとくそれを破り、神を侮る態度を続けて来ていました。

そもそも罪ある人間が、罪の傾向を宿したままで、神の神聖さの基準を示したモーセの律法を自分の努力で完全に守り切ることは不可能です。

神がモーセの律法を与えることを通してイスラエルの民に期待されたことは、実のところ、「モーセの律法を全て自分の力で守り切る」ということではありませんでした。

というのは、何よりも、モーセ契約では罪の贖いが動物の犠牲(いけにえ)による一時的なもので、「イスラエルの罪を永遠に取り去る」というものではなかったからです。

凄まじく平たく言えば、「罪の完全な解決がないのに、モーセの律法を完全に守る → 初めから無理ゲー」であったのです。

「モーセの律法を守ろうとすることで、神の基準の高さと自分の罪の深さ、無力さを知り、謙虚になって神の力に依り頼む」ということを、神はモーセの律法を通して契約の民イスラエルに期待されていたのです。

イスラエルの民はそのことに失敗したのですが、どちらにせよ、例えイスラエルの民が信仰をもってモーセの律法を遵守しようとしたとしても、モーセの律法が機能している限り、イスラエルは罪に閉じ込められたままになっていました。
神は十分にそのことを承知しておられたのです。

⭐︎そこで神がその契約の民、イスラエル民族のために用意されたのが「新しい契約」です。

「見よ、その時代が来る」(新改訳聖書2017年版)

とあります。

ここでの「その時代」とは原文であるヘブライ語では「ヨム(יוֹם)」であり、第一義的には「日」と訳されるべきところですが(新改訳聖書第3版では「その日」となっています)、「千年王国において、イスラエル民族に霊的な回復が訪れる」という文脈的なニュアンスで考えるならば、「その時代」という訳も有効なのではないかと思います。

とりあえず「その日が来る」という意味で考えるならば、それは「イスラエルのメシアである子なる神イエス・キリストが、ユダヤ人である弟子たちと新しい契約を結ばれた時」と理解することが出来ます。

「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたし(イエス・キリスト)の血による、新しい契約です。』」
(ルカの福音書 22章20節)

このことがキリストから宣言されたのは、いわゆる「最後の晩餐」として有名な「過越しの食事」においてです。

キリストはこの宣言から数時間後には逮捕され、翌朝には十字架にかけられるのですが、この「日」から徐々に、世界は「旧約時代」から「新約時代」へと移り変わっていきます。

聖霊が弟子たちの上に下った「ペンテコステの日」「教会時代」の幕開けなので、その時から完全に「新約時代」が始まった、と見て良いでしょう。

つまり、このルカの福音書を含め、4つ福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は新約聖書に収録されていますが、その書かれている舞台は時代区分で言えば「旧約時代」と言えるのです。

⭐︎「新しい契約」はモーセ契約が出来なかったことを実現させました。

それこそが、「罪に対する完全な解決・赦し」です。

前述したように、イスラエルの民はモーセの律法下において、何千何万という動物をイスラエルの罪を贖うためのいけにえとして屠って来たのですが、それは不完全で一時的なものでした。

しかし、「新しい契約」においては、100%神であり100%人である罪のないイエス・キリストが「最後の犠牲の動物(小羊)」として十字架刑を通してその身を裂いて下さったので、イスラエルだけではなく、全人類の罪が完全に赦される土台が出来上がったのです。

⭐︎「モーセ契約」(旧い契約)はそもそも罪からの救いを約束する契約ではありません。

アブラハム契約を受けた契約の民イスラエルが、約束の地カナンでいかに「神の民としてふさわしく異邦人の模範となるように祝された生活をするか」という規範を示すものです。

またその契約で約束された祝福を得るには「モーセの律法に従う」という条件が付いていました。

それ故にイスラエルの民はその祝福の享受に失敗したのです。

それに対して「新しい契約」は罪からの完全な赦し、救いを約束するものです。

しかもこの「新しい契約」による祝福は、信仰と恵みによって神から一方的に与えられるものであり、無条件です。

無条件、ということは、そこに人間の努力や取引が介入する余地がない、ということです。

イスラエルも、今現在は残念ながら民族としてイエス・キリストを拒否している状態ですが、最終的にはナザレのイエスをイスラエルのメシアとして受け入れ、民族的な救い、また物理的、霊的な回復を経験することになります。

つまり、イスラエルは将来、その罪が完全に赦されるばかりではなく、旧約聖書で彼らに約束されていた「本来の祝福」の全てを受け取る、ということになるのです。

このことの成就には、無条件で人間と結ばれた契約を必ず守られる神の主権がかかっています。

ここにこそ神の恵みがあるのであり、無条件契約である「新しい契約」がイスラエルを当事者として結ばれた意味があるのです。

⭐︎中には「新しい契約は教会(大体においてこの場合は異邦人の教会)に与えられた」と主張する神学体系もありますが、聖書を字義通り読む限りはそのような結論を導き出すのは困難です。

あくまで「新しい契約」の受け手は、「旧い契約」である「モーセ契約」の当事者であり、「モーセの律法」の支配下にあったイスラエルの民です。

聖書は一貫して、神の人類救済計画の中心はイスラエルであることを示しています。

異邦人はイスラエルのメシアであるイエス・キリストの福音を信じる信仰と、そこに働く神の恵みを通して、そのイスラエルに与えられた契約と、それに伴う祝福に与ることが出来るのです。

それは「イスラエルと異邦人」を隔てていた「モーセの律法」という障壁が「新しい契約」によって取り払われた故に、可能となったのです。

⭐︎確かにクリスチャンの中にも、今は新約時代だと言うことで、旧約聖書を読んで学ぶことにあまり価値を見出していない風潮があるにはあります。

新約聖書を読んだだけで「恵まれた気分」になり、正直、新約聖書の知識だけで何か十分なクリスチャンとしての働きが出来そうな気がしてしまうからです。

しかしだからといって、旧約を読まなくても良い、とする理由にはなりませんし、ましてや「なかったもの」として扱って良いものではありません。

今回見たように、新約は旧約という文脈、連続性の中にあるのです。

神が人類に啓示されたそのご計画の総体は、旧約聖書の理解を通して初めて把握されるものであり、その深さに触れた時、人は更に聖書の持つ力に感動し、土台のしっかりとした信仰を持つに至るのです。

旧約聖書の理解がないクリスチャンは霊的に成長しません。

聖書はそのような構造になっているのです。

⭐︎まだクリスチャンではない方も、是非、今この時、全ての人に提示されている神の無条件の愛、救いの祝福を、イエス・キリストの福音を心で信じることによって受け取って下さい。

そして人知を超えた神の深いご計画に感動する毎日を歩んでみてはいかがでしょうか。

​心よりお勧め致します。

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