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日常のなかのコスプレ感

コスプレ感とは、まるでコスプレをしているときのような、本来の自分ではない別人になったような感覚のこと。「期待された◯◯像」を演じているときに、ありのまま自分が感じる違和感です。

コスプレ感を感じた日のこと

お葬式に行く日のことです。着慣れない喪服を着て、めったに締めないネクタイを締め、僕は自宅のキッチンの椅子に座っていました。ちょっと早めに仕上がってしまい、20分ほど時間調整していたのですが、やることもないのでただぼんやりと座っていました。

自宅のキッチンに喪服を着て座っていると、だんだん居心地の悪さを感じました。自分が自分でないような、まるでこっそりと女装でもしているかのような、妙な違和感を感じました。

僕は後日、そのときの感覚を「コスプレ感」と名付けました。

日常のなかにもコスプレ感を見つける

これは、コスプレイヤーの方が積極的に取り組んでいる本物のコスプレの話ではありません。自分ではない別のキャラクターを(何らかの成り行きで)演じることになった人間の抱く違和感、自己不一致感のことです。

日本社会には「良い◯◯像」が溢れています。

良い母親(父親)、良い子、良い上司、良い先生、良い町内会長──再現なく挙げることが出来ます。なかには良い横綱なんていうのもありますね。
一言で言えば「良い人」ということになるこれらの多彩なバリエーションですが、「良い」というのは本人にとってではなく、周囲にとって都合が良いという意味合いです。

それを演じきれるというのは、社会に求められる能力だと言えます。

無意識の「良い◯◯像」を演じてしまう

だから、「良い◯◯像」を演じている人は大勢います。幼い頃から親や家族の要求を察して「良い子」を演じる子も大勢います。

百貨店勤務の女性が、休みの日に家族と一緒に私服で別の百貨店に買い物に行ったときに、

「すみません、◯◯の売り場はどこですか?」

と質問されたという話を聞きました。手を前に組んですっと立つその美しい立ち姿が、「勤務中の百貨店の店員さん」だと錯覚させたのです。笑い話ですし、これはこれでちょっとかっこいい話だと思うのですが、問題は本人にとってどうなのかということです。

休みの日なのに、百貨店員としての身振りが深く身体に浸透していて、コスチュームを脱げていない。これでは自分自身に戻って休めません。

脱ぎたくてもコスチュームが脱げなくなるホラー展開

警備員を仕事にしている方が、自分が合図をすると全ての車が停まるのは、自分の力ではなくこの制服(コスチューム)の力だ。だから、横柄な態度にならないように自戒していると話してくれたことがあります。

比喩的にも実際的にもコスチュームは社会に必要ですし、それが人を守ってくれることもあります。

でも、脱ぎたくても脱げないほど、肌なのかコスチュームなのか分からなくなるほどそれが浸透してしまうというのは、ある意味でちょっとホラーです。

コスプレ感は「ちょっと一度脱いどきましょう」という身体からのアラートです。コスチュームをうまく身につけられる力だけでなく、それを自分の意志で自由に脱着できる力は、自分らしく世界とつながるために必要です。

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長田英史(おさだてるちか) / NOT SHIP
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