常識を吟味すると本当の自分に出会える
「常識に囚われない」と「常識外れ」はまったく違います。常識に囚われないためには、常識を丁寧に吟味にかける必要があります。そして吟味した結果出会えるのは、まだ知らない「本当の自分」です。
あまのじゃくな人の本質は常識人
「俺は世間とは違うんだ! 他人とは違うことをやるんだ!」
そんな考えで、敢えて常識から外れた選択をするあまのじゃくな人がいます。「自由で自分自身を持っている人」と見なされることもありますが、こういうあまのじゃくな人って、じつはゴリゴリの常識人です。一貫性のある自分もありません。
なぜなら、「常識の反対側を選ぶ」という態度は、その選択基準を完全に「常識」に握られているからです。何でも「常識の側を選ぶ人」と「常識の反対側を選ぶ人」は1枚のコインの裏表だと言えるでしょう。
一見対照的に見える両者が同じなのは、「常識」に支配され、それを「吟味にかける」ことをしていないからです。
「常識を吟味にかける」林竹二先生の授業
宮城教育大学の学長をされていた林竹二先生は、教育の世界では著名な方です。戦後の詰め込み教育を厳しく批判し、またご自身も厳しい批判を受けた方でもあります。
林竹二先生は、大学だけでなく、小学校や定時制高校など、様々な場で授業をされていました。いずれも「人間とは何か」というような哲学的なテーマで、一人の子を立たせてじっくりと問いを深めていく授業スタイルは独特でした。
ギリシア哲学がバックグランドにあり、ソクラテスの「問答法」さながらに、「常識」とされることを子どもと一緒に吟味にかけていきました。
常識を吟味にかけると何が起こるのか?
「常識」とは、さしたる理由もないのに、いつの間にか「こういうものだ」と考えていること。自分で考えて採用したわけでもないのに、自分の考えであるかのように思い込んでいる。自分のなかにある知らないだれかの考えだと言うことも出来ます。
その常識が、身体の表面をコーティングするメッキのように覆っていて、外部からの刺激や働きかけに対して、常識的な反応を返していきます。
吟味にかけるというのは、「本当かな? どうしてそう思うのかな?」と考えていくことですが、これをやってみると、「あれ? どうしてだろう?」とそこに理由が存在しないことが分かる場合があります。
もちろん、考えた結果、いわゆる常識的な考えをそのまま採用する場合がありますが、それはもう常識ではなく「自分の考え」です。
そうなると、常識がひび割れ、身体を覆っていたコーディングが崩れ落ちていきます。そのとき内側から出て来るものが、いわば「本当の自分」です。
常識を吟味にかけ、自分なりの考えを持つことは、本当の自分を取り戻し、自分自身の人生を生きることにつながります。