02:勝手に動き出す身体─私の知らないわたしたち
「自己紹介をしてください」──そう言われたら何と答えますか?
職業や肩書きでしょうか、趣味や特技でしょうか、それともシンプルに名前だけ? もしかしていきなり歌い出したりとかしますか? そして、それは本当にあなた自身を表していますか?
私とは大勢のわたしの集合体
どんな自己紹介をしたとしても、そこに表現されているのはあなたのごく一部分です。職業と氏名を述べれば自己紹介としては「普通」かもしれませんが、「普通の自己紹介」ではその人のことは殆ど何も分かりません。「わたし」は大勢いるからです。
会社にいるわたし。
家庭でのわたし。
趣味の仲間と過ごすわたし。
同じ「家庭でのわたし」にも、「家族と過ごすわたし」と「一人で自室で過ごすわたし」は違うかもしれません。
どのような場に身を置くかで、発揮される「わたし」は変わってきます。多様性は外側だけでなく、自分の内側にも広がっています。
身体に宿る大勢のわたし
身体にも、大勢の「わたし」がいます。なぜなら、あなたの意志とは別に、身体が勝手に動き出すことがあるからです。
そんなやばいことあるかよ、と思われるかもしれませんが、日本語には身体を主語にした(つまり身体が勝手に動き出したことを意味する)表現がたくさんあります。
目が行く
足が向く
腹が立つ
「目が行く」という表現は、「私が見る」とは全然違います。結果的に対象を視認する点では同じですが、前者は「目」、後者は「私」が主語になっており、対象を見るまでの背景やプロセスが異なります。
例えば、すごくお腹が空いているときに、つい隣のテーブルに運ばれてきた料理に目が行ってしまう。向こうからセクシーな人が歩いてきて、失礼だと思いつつもつい見てしまう。
古典落語には「腹の虫が酒を飲めっていうから飲んだんだ(俺は飲むのが悪いと思っていたのに!)」みたいな言い訳をする人が出てきますが、こういう裏腹なふるまいってたくさんありますよね。つい足が向いてしまう、腹が立って仕方がない──いずれも頭と身体は裏腹です。
頭で考えていても、身体の方は別のことをやってしまう。そういうところから、「身体のやりたがっていること」を感じ取ったり推測することが出来るのです。
じゃあ「わたし」って誰のこと?
色々なわたしが出てきてややこしいので、ここで整理しましょう。
まず日常生活のなかで「私はこう思う」と主語として使っている一般的な意味合いでの「私」と、身体としての「わたし」は別物です(これからは前者を漢字で「私」、後者をひらがなで「わたし」と書きます)。
心理学の用語も使って整理すると、下図のようになります。
「あなたはどう思う?」
と何かについて尋ねられ、私はこう思いますと答えるときの「私」は、「顕在意識」とつながっています。身体的には「脳」とも言えますね。
目が行ったり足が向いたり、勝手に動いちゃう身体としての「わたし」は、「潜在意識」とつながっています。
潜在意識は意識化出来ないので、直接認知することが出来ません。でも、「こういうことなのではないか?」と推しはかることは出来ます。ついつい目が行ってしまう人がいるとして、「本当はその人のことが好きなのかも?」と推しはかる──みたいなことです。
脳と身体の不調和
通常、潜在意識と顕在意識は共同作業をしています。でも、その調和が乱れて、うまくいかなくなることもしばしばです。
新米ウエイターが緊張気味にコーヒーカップをテーブルに置こうするとき、カチャカチャと音がすることがありますよね。手が震えて、ソーサーの上でカップやスプーンが揺れ動いて音を立てます。
珍しくない光景ですが、彼は普段ならすっと静かに置けているはずなのです。「パソコンを操作しながらノールックでカップをテーブルに置く」というような芸当をしているかもしれません。
この現象を、顕在意識と潜在意識の関係から捉えましょう。
「カップを持ってテーブルに置こう」というのは、顕在意識が決めています。自由意志を行使するのは顕在意識だからです。
一方で、ソーサーのどの部分に指のどの部分をどれくらいの強さで押し当てるとか、どれくらいのスピードでソーサーを移動させるとか、そういうことは潜在意識がやっています。細かなことは身体が勝手にやってくれるわけです。
でも、「お客様に失礼のないよう教えられた手順で美しくサーブしよう!」と気負ってしまうと、普段は身体に任せていた部分まで頭で制御しようとします。何も考えずに出来るはずのことが、考えると出来なくなってしまうことがあるのは、こうした理由があるからです。
色々なことを思考でコントロールしようとしても限界が来るのは、当然だということが分かります。
身体を主語にして私を捉える
現代人は、ほぼ顕在意識だけを私だと考えて暮らしています。でも、身体が勝手に動く現象からも分かるように、隠された本心のようなものが身体に宿っているということも、われわれは知っています。
ただ、知ってはいても、あまり尊重していません。
尊重の仕方が分からないのも理由のひとつでしょう。
僕に身体的世界の広がりを教えてくれた鳥山敏子さんは「からだが◯◯したがっている」と身体を主語にした表現をよく使っていました。「うん、あなたはそうしたいと言うんだけれど、あなたのからだが嫌がっているんだよね」みたいな感じです。
こんな風に、身体を主語にして自分自身の存在を捉え直すと、新しい自分を見つけることが出来ます。未知の存在みたいな感じで怖さを感じる人もいると思うのですが、正直言って、こんなに面白いことはそうそうありません。僕には宝の山みたいに感じられます。それに、未知であろうと何だろうと、そこにいるのは他ならぬ自分自身なのです。
それでは、「自分の身体のやりたがっていること」をどのように知り、どう暮らしの中に活かすことが出来るのか、次回僕の体験も交えて具体的に書いていきたいと思います。