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自分の身体がやったことを観察する

何らかの行動をふりかえるときに「どう考えてそう行動したのか」という観点が一般的です。僕は身体性にかかわることをやってきたので、「こう行動したということは、それだけの理由があった」という風に考えます。

やったことこそ客観的な真実

「言葉より行動で示してよ!」

みたいな言い方があるように、「私はこう思います」と言葉で言うよりも、実際に相応の行動をした方が説得力があります。

それでも世の中では、実際にそう行動したのにもかかわらず、「そんなつもりじゃなかったんです」みたいな言い訳が横行しています。もちろん誤解されることだってありますから、そんなときは説明すべきですが、自分自身の取った行動に対して自分でもよく分かっていないということも多そうです。

行動をベースにふりかえってみる

そんなときに、行動をベースにしたふりかえりは、自分を知るための手がかりになります。

単純な例では、ドアを閉めるときに大きめの音がしてしまうような場合です。「いや、別に怒ってないよ?」と本人が言っていたとしても、いつもはそのドアを静かに閉めていたのに強く閉めたのだとしたら、強く閉めるだけの内的な理由があるはずなのです。

つまり「怒っていないし何もないから、たまたま強くドアを閉めただけ」と捉えずに、「特に怒りなど特別な何かを自覚していなかったけど、いつもは静かに占めるドアを強く閉めたのだから、何かがあったんだと思う」と捉えます。

怒っていない、という主張は主観的ですが、ドアを強く閉めたという事実は客観的です。行動をベースにしたふりかえりってちょっとシビアだけど、すごく客観的な態度だと言えるのです。

身体とは勝手に動くもの

多くの人が身体というのは自分の意志で完全制御出来るものだと考えていますが、それは誤りです。むしろ、身体というのは意識のあずかり知らぬところで、勝手に動いてしまいます。

ドアの話に限らず、セクシーな人が前から歩いてきて、見たら失礼だと思いつつもつい目がいってしまうとか、身体が勝手に動く例はたくさんあります(参考記事を貼っておきます)。

そのように、自覚していなくても勝手にやってしまうことというのはたくさんあり、自分があれこれ説明しようとしている自分よりも、むしろずっと素直なありのままの自分だと考えることが出来ます。

心のなかはすべて見えない

どんなに内省しても、人は自分の心のなかで起きていることをすべて見通すことは出来ません。「無意識」という言葉が象徴しているように、意識の及ばない領域というのが存在します。意識出来ないだけで、そこに自分自身がいるのです。

自分の身体がやったことを観察し、行動をベースに自分を知ろうとすることで、普段は光の当たらない心の領域に、光を当てることが出来ます。真っ暗な場所で懐中電灯を当てるのと同じで、全体像は分かりませんが、その一端をうかがえます。

すぐに「答え」は出なくても、こうした自己への関わり方は、自分を許し認め、大切に取り扱うことにつながります。

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長田英史(おさだてるちか) / NOT SHIP
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