人生の溝 展望レストラン

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5月の夕暮れ、私は都内にある12階の展望レストランで前菜が運ばれてくるのを待っている。
すっぴんにパジャマ、両サイドとも右にはねた短めの黒髪に丸めた背中。目の前に広がる景色とテーブルに灯されたキャンドルをぼうっと見比べる。この辺りは高い建物がないので、都内と隣の県が見渡せる。

ギュ、ギュ、ギュ。
広いレストランにただ1人のウエイターの靴音が響く。客は私と、10メートルほど離れた席で同じく外を眺める女性だけ。横顔しか見えないが、私と同じくどこかぼんやりとした顔をしている。

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クリームチーズがシュー生地に入ってやってきた。クリームチーズを食べるのはいつぶりだろう。
次は、ホタテとサーモンのガトー仕立て。イクラが散らされている。海鮮は好きだ。中でもイクラは大好物、だった。
鯛と大海老の…なんとか。おしゃれな名前すぎて覚えられない。
牛ヒレ肉のローストは、ナイフを入れるとむっちりとした赤い肉が見える。赤ワインが使われていそうなソースがなんともまたオシャレで、こんな肉も大好き、だった。

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この度私は、34歳の初産を無事に終えることができた。我が子は元気な女の子で、まだ信じられない思いもありつつも、愛おしくてたまらない。壮絶な体験となった出産から4日目の今日、私は院内レストランのお祝いディナーに招待されたのだ。向こうに座っている女性も、きっと同じ日に出産を終えたのだろう。いやはや、お疲れ様です、私達。

お祝いディナーのフルコースは、素晴らしかった。
でも、妊娠中に控えていたナマモノや赤身の肉、濃い味つけはいつの間にか体が受け付けなくなっていて、昔のような感動は味わえなかった。ああ、残念。

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夕暮れが夜景に変わり、天井の照明が点けられた。どうやら夜景堪能タイムは終わったらしい。
残してしまった料理を名残り惜しくフォークでつつくのをやめ顔をあげた時、自分と目が合った。
ああ、私ってこんな顔だったんだ。
むくんだ顔とおよそ社会性のない身なりでこちらを見てくる人物は、これまでの人生の全てを忘れたような顔をしていた。
まるで人生の溝に落ちたようだ。明日からはきっと怒涛の日々。
美味しく食べられなかったけれど、きっとこの料理と不思議な時間は生涯忘れないのだろう。


#元気をもらったあの食事
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#産後

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