差別は嫌いです。老人差別もやめてください。
僕がこのコラムで書こうとしていることは、割と一貫しているところがあって、何回も同じことを言っているような気がします。
それは「差別」についての考え方です。
人が人を支配するとか、イジメるとか、殺めるとか。僕は大っ嫌いです。
いくら法律をつくって人を守ろうとしても、いじめとか、支配とか、戦争とか、そんなことが、今も昔もずっと続いていますね。僕はこれは「人間の叡智が不足している」からだと考えています。
叡智です。辞書には「叡智=深遠な道理を知りうるすぐれた知恵」とありましたが、僕は子供の頃、小学校の先生にこう教わりました。
「人間は人間として生まれてきたのではなく、人間になるために努力をするのです」と。
昔の先生は、勉強にも熱心でしたが、人としての道理を教えてくれました。そして、生徒が一人一人考えて、自分にとって大事な言葉を選び、書道の時間に書きました。僕は、希望、勇気、友情という言葉が好きでした。
すばらしい先生と出会ったおかげで、その後の人生も「人間になるために」経験を積んできましたが、なかなか本物の人間には到達できないものです。
小学校時代に差別はなかったように記憶していますが、ひょっとしたら僕は気が付かなかっただけで、僕自身が陰で差別されていたのかもしれません。イジメに会っていたからです。しかし、ある時、あまりに腹が立って相手の顔面をグーで殴ってやったことがあります。相手は血を流していました。それ以来イジメはなくなりましたが、僕はいい気持ちがしませんでした。相手をやっつけるのは苦手です。
さて、老人になった今、初めて「差別される経験」をしました。
「おいぼれ」と呼ばれて、いじめられたのです。
情けないというか、腹が立つというか、相手を殺したい気持になりましたが、今でも相手には何も言わず、笑って黙っています。
今はその相手とは縁を切りましたから何も問題はなく、「そういう人間がいるんだなぁ」ぐらいに思っておりますが、やっぱり思い返すたびに悔しい気持ちが湧いてきます。
問題は、そういう人たちが大衆に支持されているような現実があるからです。例えばガーシーという人は、ネットで人を叩いて数億円を稼いだらしいです。「誰かを叩くとヒーローになれる」というのが今の人たちの知恵なのだとしたら、世の中の道理はまったく存在しない。
僕はただ、「アホなだけ」「知的水準が低いだけ」と思っていますが、若い年代にそういう人が多く見られるのは、本当の教育者がいなくなったからかもしれませんね。
教育は大事ですよ。