デザイナーは自分の学びを設計する
知るべきことが多くて多くて、学べ学べとあせっていても、混乱極まり手につかない。
こんな状況、デザイナーなら誰しも身に覚えがあるのではないかと思います。もしくは若い読者ならこれから訪れる試練なのかもしれません。
技術が、社会が、デザインが。変化しつづけるその先端で、デザイナーは学びを重ね、成果を出し続けなければいけない。変化するのは自分自身も。年齢もポジションも状況も。今後のキャリアを考える中で、目の前のことをやっているだけでは手詰まりになってしまう。
学ぶことが多すぎて混乱する。そんな現代のデザイナーの悩みに応えるべく、生意気にも「学びを整理し設計する手段」について書いてみます。学ぶことは生きること。学びは多様であるべきです。「こう学ぶべし」とは言えません。こんな風に考えると楽になるかもしれない。そんな内容です。
インプットはつらいよ
学ぶことを「インプット」と思っているとつらくなる。私はそのタイプです。入力→出力。入力→出力。情報を入力し成果としてアウトプットする。機械のような人間観。出力を目的とした入力作業。インプットと捉えてしまうと、どうしてもシンドいものになってしまう。
自分だけが「知らない状態」でバツが悪い思いをする。だからこそ、「知っている状態」になるために情報をインプットする。黙々とネット記事や書籍を読みあさる。アタマの中に情報がストックされ、その量が増えていくと能力が上がっていく。そんな学びの捉え方も決して悪くはありませんが、なんだか振り回されているようで、学びを手なづけている感はありません。
そもそも、学びとは、入力された情報がただ出力されるというものではなく、自分の身体の中で情報と情報がネットワーク化され、外部環境とのインタラクションや経験を通じて、自分なりの知識として発酵していくような過程。ネットワーク化された情報が関係付けられ、その場の環境との相互作用でポロッと外部化される現象であったりします。その外部化された知識が他者との対話で強化され、新しいもの、意外なものへと発展する創発的な出来事でもあります。
「学ぶ」の意味をデザインする
そんな不思議な過程や現象や創発を、ひとことで言い表すのは難しい。
しかし、デザイナーです。デザイナーだからこそ、そこに自分なりの学びの意味を、自分でデザインすればよいのです。
学びというと学校教育のそれのようで、よいイメージを見いだせないでしょう。暗記。宿題。試験。予習復習。私語厳禁。正解不正解。赤点補習追試験。もう、書いているだけで鬱々としてきます。
だからこそ、意味を変換し自分をドライブさせる。
私にとっての学びは、「社会との結節点を多くし、観察の解像度を上げること」。知識が量として増えるというよりは、社会を捉えるセンサーが磨かれる感覚。どんどん多視点になっていく。こんな意味づけです。
もしくは「学びはトレーニング」。アスリートが毎日トレーニングするように、デザイナーも日々の学びでカラダ作りをする。こんな表現をする人もいます。読者それぞれが学びの定義を持てばよいのです。
デザイナーは少なからず創造的な成果を求められます。であれば、デザイナーという一人の人間を形成させるための「学び」を、単一の没個性的な意味合いに閉じるのではなく、自分なりの創造的な定義を当てはめてみること。それにより自分の学びを軽やかなものに変えていくこと。これが重要なのだと思います。
いま必要なものと、ずっと必要なもの
自分の学びの意味を定義する、と。はいはい。わかった、わかったけども、それだけでは自分のシンドさは解決できないよ、と。そんな声もあるかと思います。
そんな時は、学びを定義した後に、その組み合わせを考えてみる。無限にある「学ぶべきもの」のグラデーションを区分けし、整理し、自分のアクションを起こしやすくする。構造化しシンプルに整理することで学びへのストレスを軽減させる。やる気と効果を上げていく。
私の学びの整理は上の図のようなものです。
一つは、いま必要なものと、ずっと必要なものに区分けしてみる。
デザイナーですから、喫緊で取り組むプロジェクトのための学びは必須でしょう。「いま必要」な学びはかなり多い。それがないと仕事ができない。私はデザインエージェンシーのデザイナーですから、プロジェクトごとにクライアントが異なり、業種業態も多様です。その都度、結構な量の学びが必要になります。
ただ、それだけを繰り返していると、将来的に必要な「ずっと必要」な学びがおろそかになってしまう。
私にとっての「ずっと必要な学び」は、「変化の少ない原理原則」を探ること。今、局所的に起こっている各論ではなく、中長期的に必要となる知識を得ることです。枝葉ではなく幹を捉える学び。幹の部分がないと、日々触れる情報を体系づけて理解できない。社会で日々起こる事象の背景を把握できない。
ずっと必要な学び。デザインに関することであれば、デザインの定義に影響するようなシグナルを捕まえるような学び。ビジネスに関することであれば、経営戦略、事業戦略などの原理原則を血肉化し、自分の中に知識の体系を築くような学びです。(私は美大卒ですので、デザインは学生時代に相応に学びましたが、経営に関する事柄は社会人になってから学びました)
「変化の少ない原理原則」はたいがい理解が難しい。研究者が書いた分厚い本だったり、難解な言葉が並ぶテキストだったりします。でも、それにも食らいついていく。タイパなどとは言わずに「勉強」するのが大事だと思います。私も今でもノートを取りながら、同じ本を何度も読むことがあります。
難しい概念は、しっかりと内省を重ね自分の言葉にしていくことも大事です。あえて遅く学ぶことが重要なものでもあります。
とりあえず、デザインとビジネス
いま必要なものと、ずっと必要なものに分けるのと同時に、私は、別軸でデザインとビジネスに分けています。
そもそも、デザインとビジネスは不可分なもので、区分け自体に陳腐さを感じますが、ある種の戒めのために意図的に分けています。ビジネスビジネスうるさいよ、と思われますがやっぱりビジネスです。
それはデザインを目的化しないように、との戒めです。デザインだけを考えていると、それが無意識に目的化してしまう。デザインを社会の中で相対的に捉えられなくなってしまう。デザインが機能する土俵は常にデザインの外側にあります。デザインが活躍するフィールドのことを知らなかったら、何もできなくなります。
ビジネスというと抽象的ですが、私の中のそれは「経営」です。経営とは事業を持続的に運用することです。仕事で行うデザインの多くは、この範疇の中で起こる話です。
デザインを協働する相手はビジネスの力学の中で動いています。ビジネスを知るということは相手を知るということでもあり、「相手の視点で考える」というデザインの原理原則からみても重要なことです。
私は会社役員の立場であるため、ビジネスの学びはかなり多めにしています。このビジネスカテゴリーの学びは読者が置かれる状況によって、比重は大きく変わるものだと思います。
しかしながら、ゼロはまずい。そう思います。なぜならデザインを相対化できないからです。デザインとデザインでないものとの相互作用の中で、何かが生まれ、創造的な成果に向かいますが、その機会が芽生えないのです。
デザイナーにとって、ビジネスの学びほど「お勉強」モードなものはないかもしれません。そもそも知らなすぎて論点化もできない。とっかかりも見えない。そんな人も多いと思います。
そういう人は、知っている人に相談するのが手っ取り早いと思います。デザインとビジネスを両軸で捉えている人は、頭の中の地図も出来上がっているもの。おすすめの勉強法や推薦図書など紹介してくれるでしょう。(ちなみに私は、時代的にデザインとビジネスを両軸で語れる人が周囲にほとんどいなかったので、山口周氏の「ビジネス書マンダラ」で紹介される書籍を読みあさりました。10年ほど前のことです)
実務的なデザインの学び
さて、デザインの学びにもふれたいと思います。デザインの学びにとって重要なのは、実務と研究のバランスを取ることです。
先述の「いま必要なもの」「ずっと必要なもの」の区分けでいきますと、前者が「実務的なデザインの学び」で、後者が「研究的なデザインの学び」です。
実務的なデザインの学びは、たとえば、ツールの習熟、リサーチ手法の把握、喫緊で必要なデザイン手法の理解、などなどです。目の前のデザイン業務を完遂させるために必要なあらゆる学びが含まれます。
自身のデザイン技術のアップデートにあたるものも「実務的なデザインの学び」に含みます。例えば、紙のデザイナーがデジタルプロダクトのデザインに取り組む。ライティングにも取り組むといったものです。
これは、社会や技術の変化に応じて、自分のスキルを最適化していく行為にあたります。その最適化のために、常に変化の中に身を置くことも必要な態度です。このような技術更新を「将来的に必要なもの」として、自習し座学するのはツラいし効果も薄いもの。あえて「いま必要な実務」にすべく、自分から実務に飛び込むことも重要なものです。
研究的なデザインの学び
さて、「研究的なデザインの学び」の方は、自分のデザインの軸を形成するための学びです。たとえば、私の書棚には、過去読んだ「技術哲学」「アクターネットワーク理論」「デザインマネジメント」というような項目が並んでいます。自分の興味関心でドライブしているのが実情ですが、今すぐ必要というか、長期的な体づくりのためにも必要な学びと心得ています。
デザインは、社会や環境に直接的な影響を与える実践的な学問であると思っています。その意義の根幹は変わらないにせよ、社会の要請により、軸足は変化し続けています。
典型的なのは、造形のデザインだけでなく、体験や構想に関わるデザインが論点化されたこと。「造形のデザイン」の一本槍でも全く問題ないことですが、体験や構想のデザインを知っていての「造形のデザイン」なのかどうかは、思考や実践の深みが全く異なります。自身のケーパビリティがどこにあるかに限らず、全体像を把握し、自分の視野内に各論を置いておくことの意義を忘れてはいけないものです。
繰り返しますが、「実務的なデザインの学び」と「研究的なデザインの学び」。重要なのはそのバランスです。前者に傾くと「仕事はできるが提言が薄い」ことになるかもしれません。特に年齢を重ねていくと成長の壁を感じるかもしれません。後者に傾くと「頭でっかちだけど、現場では活躍しづらい」となるかもしれません。周囲からの信頼を蓄積できないかもしれません。要はバランスです。
とても重要な「その他」カテゴリー
ここまで、「いま必要」と「ずっと必要」という時間軸での区分。デザインとビジネスといったカテゴリーの区分を紹介してきました。
そのいずれにも当てはまらない「その他」。そういった学びもとてもとても重要なものです。ようは自分の興味関心のおもむくままに雑食せよ、というだけなのですが、この雑食性がデザインの学際性につながり、創造的な解へ導いていくものだと考えています。
例えば私は日本史が好き(というか歴史小説が好き)なのですが、過去生きた人々の政治模様や人間模様はそのまま今の仕事のヒントにもなります。また、別の角度で安全保障に関する書籍を読むことで、日本の社会をマクロにも時代横断的にも捉えるきっかけにもなっていきます。
創造性とは異なる物事の組み合わせであるとは、よく言われるものです。ですので、あらためて声高に雑食せよと言う必要はないかと思います。
ただ、忙しすぎて学ぶことに窮した場面では、雑食的な学びに対して、なんだか罪悪感を感じることもある。仕事のことを考えなきゃ、デザインのことを考えなきゃと、そっと雑食的好奇心にフタをしてしまうこともある。
でも、雑食したければ、そんなときは大いに雑食すればいい。そう思います。その根拠となるのが、次の段落で説明する「変化とゆらぎ」です。
変化とゆらぎを肯定する
仕事をしていれば、その時々で必要な学びはコロコロと変わっていく。私もプロジェクトごとに、その業界の理解のために、その都度学びが必要になってきます。時には、「いま必要」な学びだけになり、「ずっと必要」な学びがおろそかになってしまう時もあります。仕事の状況から、学びの状況が変化してしまいます。
また、自分自身の気持ちとしても「なんだか今はこれに興味がある」というようなゆらぎも生じてくる。人間なので仕方がないことです。
状況変化の中で、学びの組み合わせのそれぞれの比重は変わってくるかもしれません。自身や環境のゆらぎの中で、やる気が出てくるものも変わってきます。でも、そんな学びのあり方を「計画的でない」とか「戦略的でない」と否定しないほうがよい。変化やゆらぎは多いに肯定すればよいのです。
学びは環境とのインタラクションによって生じます。自分の興味のシグナルは、環境に対峙する身体が無意識に欲するもの。その時の環境が求めていることを学ぶ方が効果が高いものです。
変化やゆらぎは、あなたという個性を生みます。変化やゆらぎといった変数は、その人だけのものです。一つとして同じ組み合わせはない。その時々で移り変わる、学びの組み合わせの変化や、雑食による見識の強化から、情報が組み合わされる創発の可能性がどんどん増えてくる。
ときに、何か仕事で失敗してしまう。その失敗からくる反省から、「これを学ばないと」と強く動機づけられるとします。それも一つのゆらぎであるし、創発の材料となります。こんなポジティブな気持ちで、自分が体験するすべてのものを学びに変えていく。予定調和でない自分や環境の変化を創造性の種に変えていくのです。
組み合わせの基本軸を背骨にもつ
変化やゆらぎを肯定するにしても、それに身を委ねすぎない。学びの組み合わせの基本軸を意識し、そのニュートラルなポジションをイメージする。今の自分がそこからどれだけズレているかを意識する必要もあります。
学びを区分けするというのは、それを整理し、動きやすくするのと同時に、全体のバランスを点検する行為でもあります。
今、担当しているプロジェクトでは、「今すぐ必要な実務的なデザインの学び」に傾倒しなければいけない。でも、このプロジェクトが落ち着いたら、「ずっと必要となるビジネスの学び」に取り組もう。こういった、調整的な考えを持つことが、持続的な成長には重要なものだと考えています。
ニュートラルなポジションを意識すると言っても、それほど真面目に捉えなくてもいい。たまに立ち戻るくらいでいい。
学びを整理し設計すると言っても、結局頭の中はぐちゃぐちゃでドロドロになります。でも、そんな混沌もすばらしい。言葉にならないドロドロを抱えている方が、フラットにも柔軟にもなれます。頭の中がスッキリと筋が通ってしまう方が硬直的で、外部環境とのインタラクションに鈍感になります。
なんとなく筋が通りそうになったら、雑食して混ぜる。やばいと思ったら書店にでも行って、偶然の出会いとランデブーする。
それでも、学びの組み合わせは背骨のように貫いて、流されたり振り回されたりしないようにしておく。学びを整理し設計するといっても、硬質な建造物や機械ではなく、しなやかで躍動的でしたたかな生き物を設計するイメージ。混乱と秩序が代謝し続ける、それが破綻なく繰り返される。そんな枠組みをもった自律的な存在を自分の中に設計するのです。
学び続けていれば生きていける
「デザイナーは学び続けていれば生きていける」。何気なく発した私の言葉に、それを聞いた20代のデザイナーは「なんだか安心しました」と言ってくれました。ある日の社内の会話です。
心身の安全さえあれば、学び続ければ生きていける。社会が変化しても、学ぶ態度があれば生存できる。これは事実だと思います。逆にいうと、デザイナーは学び続けなければ生きていけない。これも事実です。
自分にとっては当たり前すぎるこの事実が、若手デザイナーには当たり前になっていないのだなと感じ、この記事を書き始めました。同時に学ぶことが多すぎて混乱してしまう問題も、解決の手助けができないものかと。そんな思いも常日ごろから感じていました。
学べば学ぶほど知らないことが増えてくる。自分がいかに無知であるかが分かってくる。
若い時に体験した「言葉にならない思い」を、今になって言葉にできるようになる。逆に言えば、若い時に無理に言葉にしなくて良かったとも思う。若い自分の狭い見識で安易に言葉にしてしまい、わかった気にならないでよかった。そこで考えるのをやめないでよかった。大事なもやもやを、この歳で言葉にできて良かったと感じることも増えてきた。
学びは一生ものであって、急に視界が開ける時もある。学びの楽しさはそこにあるのかもしれません。学び続ける人はいつでも魅力的です。急がなくてもいい。
※今回は、デザイナーが学び続ける方法について紹介しました。本記事では、自分の「ゆらぎ」を肯定し、学びに活かす考えを述べました。これは下記記事で紹介された、ウェルビーイングをつくるデザインの考え方に着想を得たものです。合わせてご覧ください。