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中編「梟の目の裏」

【林芙美子文学賞の予選通過作品です】

 メノウラ、と小鳥遊が呟いたとき、冬真は蟻の巣穴を踏みつぶしていた。
「……メノウラ?」
「目の裏」小鳥遊はむしった雑草を上下に揺さぶった。泥と砂の混じった小さなかたまりがあたりに飛び散り、思わず目を閉じた彼の睫毛にもいくらかあたる。「梟の」
「なにそれ」
「見たことある?」
 彼は擦りつけていたスニーカーを止めた。彼の影が小鳥遊にもたれかかり、大きな目がこちらをまっすぐに見上げている。その首筋のあたりから、湿った汗と制汗剤のにおいが混ざりあって漂う。ない、と答えると、小鳥遊は大きな目を余計にひらいて、あたしは見たことある、と言った。
「あたし、ふくろう飼ってるんだ」
「ふーん……」
 屈めば背中に太陽の熱が滲む。放課後十六時、梅雨明けのこのごろ、汗が滲むほど空気は生温かい。雑草が点々と生えた学校の中庭からはロの字の空が見え、あたりは校舎に囲まれていることを知る。数学の問題を思いだす。チョウホウケイのメンセキ、タテかけるヨコ、と彼は口の中で言った。前髪の生え際とこめかみからうっすらした汗が滑り落ち、袖口まくりあげたワイシャツを雑に押しつけた。このごろ自分のからだを、厚くなったと思う。思わず押しつけた腕がそのまま止まり、彼は息を深く吸いこむ。汗のにおいに誰かのにおいが混ざっている。違和感のある鼻先。腕。血管。首周り。骨の太さ、というのを最近とても気にするようになった。
「ふくろうは、耳の穴から目が見えるの」
「耳?」
 小鳥遊はそれには答えず、目を伏せ、頬を滑った汗を雑に腕でぬぐいとった。睫毛にも汗がついたのか、苛立ったように何度もまばたきを繰り返った。

「……そっちむしって、全部」
 ふたり太陽に背を向け、頭のあたりに影を落としながら雑草を引き抜く。小鳥遊は黙々と雑草を抜き続けている。細い腕を隠すようにだぼついた黄色の腕章が巻きつき、油性ペンで書きこまれた「美化委員」の字が、ところどころ陽ざしに塗りつぶされていた。その丸っこい爪の隙間に焦げ茶色の土が詰まっているのを横目で見、冬真は鼻を啜った。
 グレーのプリーツスカートからのびる小鳥遊の足は鶏肉の質感によく似ていて、唐揚げが食べたいとぼんやり思った。間近で見る足の皮フはじっとりと濡れ、毛穴とその肌荒れまでが見えた。ソックスのゴムが彼女の膝下に食いこみ、赤くぼやけた痕になっている。小鳥遊の足は重たい衣擦れの音を立てながらずれていき、彼をおいて奥へ消える。彼がだらだら雑草をむしっているので、小鳥遊はそのかわりと言わんばかりにそそっかしい手つきで雑草を掴んでは容赦なくむしり、砂を落とし次々地面に捨てる。
 冬真はいつまでもぼんやりと自分のつまさきあたりの雑草をむしっていた。春におろしたばかりのスニーカーは母親の小言を無視して白を選んだせいですでに小汚く、へたくそな蝶々結びはいくつも瘤を孕んでいた。
「ハヤサカくん」
 名前を呼ばれたとき、彼は根っこにはりついていた黒い虫を指先で潰したところだった。
「話変わるけど、あ、虫……あたし、弟生まれるの」
 むしる。暑いから顔をあげる。汗が滑る。空が見える。部活動の声がこだまして上空で飽和していく、指先がどろくさい青くさい、ため息が出る、かがんだ膝裏が痛い。タテかけるヨコ、テイヘンかけるタカサわるニ、ジョウヘンたすカヘンかけるタカサわる、……ニ、
「あたしね、オヤの、見ちゃった。たぶんそんときできたやつだと思う」
「……あ?え?」
「キモイよね」
 カンッ、かたく高い音を立てたのはきっとグラウンドの向こうの野球部のバットだった。汗がまた伝う。小鳥遊は睨むような目つきで彼を見ていたが、眩しいせいか見えすぎたせいか、反対になにも見えていないせいなのか、わからなかった。長い黒髪をポニーテールにした小鳥遊の目尻は吊り上がり、上気した頬と見開かれた目、湿った質感の肌、はりつく数本の髪、きつく結ばれた唇がいつまでも濃い輪郭になってそこに残っていた。小鳥遊はゆっくりと唇を動かし、汚いよね、と呟いた。

               *

 シンシュだから殺すなよ。
 あのとき自分が殺した虫は本当に新種だったのか、今でも考える。小学校四年生の夏休みだった。その夏彼らは、水筒や変形した真みどりの虫かごをぶらさげて遊んだ。虫を捕まえ、いたぶり、愛し、殺し、気まぐれに逃がし、自分たちを慰めることに熱中していたようだった。虫ならなんでもよかった。かぶとむしやくわがたは学校の更に奥、雑木林まで行かないとなかなか見つけられなかったので、彼らは名前の知らない小虫や大きなかまきり、かなぶんを捕まえ、足をもいだり頭を千切ったり、異種同士で戦わせようとしたりした。自然の中に入りこんだ少年たちの手は確かになにかを歪め、それは熱で徐々にひしゃげていく金属の檻のようだった。
 年月の中で顔も擦れてしまったが、当時の友人たちのうちのひとりが、見たことのない大きな虫を捕まえた。ちょうちょでもかぶとむしでもかまきりでもなく、彼らは驚き、歓声をあげ、シンシュだシンシュだと大騒ぎした。誰の虫かごに押しこむか争った。
 じゃんけんで勝ったのは冬真だった。彼だけが唯一、真新しい虫かごをさげていた。気をつけろよ、とひとりに肩を小突かれ、殺すなよ、ともうひとりに脅され、早くしろ逃がすなともうひとりに文句を言われた。
 押しこむ瞬間、汗ばんだ指先で彼は確かに虫の頭を潰した。
 誤魔化すように手を離し、蓋をした。冬真はあいまいに笑ったまま、羽の残骸がまとわりついた指先を背中のあたりで擦り合わせていた。
 友人たちと別れる夕方まで虫の息を誤魔化し、死骸をぶら下げて帰路を走った。金属くさく、ぬるい水道の水で洗ったその指先で自分の持ってきたクッキーを食べ、友人の持ってきたポテトチップスをつまみ、水筒のコップを握っていた。その罪悪感は今も生きている。

 目を開く。レースのカーテンが空調の風にわずかに揺れている。清潔なにおいのする空気は乾いている。横たわったベッドシーツも枕もカーテンも全部、はっきりしたブルーだった。
 外はよく晴れていてすべてが遠くにあった。結んでいたカーテンをほどき、雑に引いた。部屋が薄暗く青くなる。カーテンレールと天井の隙間に光がちろちろと揺れ、教室の水槽を思いだす。蝉の声が窓の向こうで腫れあがる。階下で母親の声が聞こえる。知らない女たちの声も混ざって耳障りだ。
 ――ェ、てェ、……ナの、ォ、きゃは、ふふふ、ふん、ふ。
 ――って、いってね、い、ィ、あははははは、ォ、ふ、ふふ、ゥ。
 女の笑い声は壊れかけのなにかに似てる、と彼は枕に唇を押しつけながら思った。女の喋る言語はどうしても知らないものに聞こえる、言葉はわかるのに、意味がわからない。拾えない。ぼんやり垂れ流すラジオや、興味のない音楽と同じだ。目を閉じた。空調の音の隙間にも、女たちの声が入りこんでくる。
 目を閉じているときでもなにかが常に見えている。実のところ目を閉じるということはできなくて、ただただまぶたで蓋をしているだけなのだと思う。彼のまぶたにはオレンジ色と黄色の混ざった皮フの色が透けて見えていた。ちゃんと目を閉じてみたい。彼は何度もまぶたに力を入れてみたものの、ただ震えるだけだった。ゆっくりとまぶたをあげる。
「冬真」
 ドアが三回ノックされた。彼は寝返りをうった。自分のにおいが染みついたタオルケットが衣擦れの音をたてて肩から滑り落ちた。指先でつまんで引き上げる。
「冬真、いんの?」
 ため息をついたのと同時にドアが開いた。目線を向けると母親が立っている。陽の光が途絶えた廊下ではその輪郭が歪んで見え、母親の半分は影になってしまっていた。
「……なに」
「なにじゃない。いるんなら返事。あと制服のまま寝ない」
「マジでなに。教室の途中じゃねえの」
「おりてきて。あんたにケーキ買ってきてくれたんだから」
 母親はタオルケットに覆われた彼の背中を強く叩いた。その手には体温が通いすぎており、あつ、と彼は眉をひそめ、仕方なく起き上がった。頭が重たくぐらりと揺れ、鈍い痛みが走る。早く来なさい、母親はそう付け足し、足早に階段をおりていく。ベッドに転がったまま、ろうそくの火に似た動きで揺れて消える母親の影を眺めていた。

 ドアを押し開けた瞬間、生ぬるい空調にのって花のにおいが濃く鼻腔を突いた。
 彼の母親は自宅のリビングでフラワーアレンジメントの教室を開いている。父親は海外の家具を輸入する仕事に就いており、家には父親の選んだ家具と母親の選んだ花がわずかな隙間にさえ顔を埋めている。あめ色の木材、彫られた模様、くびれた脚、刺繍の入ったクッション、艶のある木目、真っ赤な花びらとめしべの先端、しおれたときのにおい、花瓶の中にある、曇ったような水の色、母親の手の中でまっすぐに硬く伸びる茎、切り取られてゆくその先端。床板に散らばった葉と花びら。このごろすべてがやたらと視界の隅に引っかかり、日常を踏みしめていく彼の両足を止める。
 ダイニングテーブルには大きな白い化粧箱が置かれ、そこからマスカットのタルトが半分顔を出していた。白いクロスがかかるもうひとつのテーブルに、人数分の皿とデザートフォークが積まれている。皿の上で反射する銀色のフォークを睨みつけていると、母親が彼を呼んだ。部屋にいるのは見知らぬ中年女と老婆ばかりで、すべての目が彼をとらえた。
「挨拶は」
「ちは……」
 首をすくめただけの会釈に、女たちはゆるやかにほほえむ。母親は彼の肩を掴み、静かにひきよせた。冬真は目を伏せた。テーブルの猫脚に、誰かが切り落とした茎と黄色い花びらがひっついている。
「息子ですう。高校生になったばっかで」
「あらーあ、おかあさんそっくりなのね」
「あーはは、そう、そう、よく言われるのお」
 母親は女たちと喋るとき、子どものように敬語を崩す癖があった。肩には母親の指が十本食いこみ、力はそれほどないはずなのに動くこともできなかった。男や子どもを見るときの女の目は、地面を這う蟻を観察するときのような目だ。
 暑い。
 背中にじっとり汗が滲んでいた。歳をとった女たちのために空調の温度が高いせいだ。
「名前くらい言いなさい」母親に尻を叩かれる。
「……ハヤサカトウマです」
「苗字はみんな知ってんのよ」
 呆れた母親の言葉で女たちがどっと笑い、彼はまた鳩のように首を動かさなければいけなかった。やがてタルトにケーキサーバーの先端が食いこんだ。鈍い銀色にカスタードクリームと生クリームの混ざった脂肪色が薄くはりつき、生々しい不快感が眼球を舐めた。
 母親が順番に皿へタルトを乗せていく。最初に皿を受け取った女が、この教室で最も歳をとっていた。女は皿を見てきれいだと言い、それから冬真に笑いかける。
「大きいのあげてね」
「これあげましょうね」
「マスカット好き?」
「さやこさんもう少し切ってあげて」
「はい」母親がやけに丁寧に皿を渡してくる。「ちゃんとお礼言いなさい」
 マスカットの乗ったタルトから、厚ぼったいカスタードクリームがこぼれる。ピーターラビットのプレートをおおきく陣取ったひときれに目を伏せる。母親の淹れた紅茶は気取ったにおいがする。目の前にミルクポットが置かれ、その音で顔をあげた。
「ぼっとしないの」
 彼を見つめる母親の目には不明な違和感がある。目の形も色もなにもかもがそっくり入れ替えられてしまったように見える。見つめていくうち不安になる。彼は目線をどこに向ければいいのかわからずに、テーブルの木目を数えることにした。一本、二本、三本目がゆるく曲がっている。指でなぞる。ごく細かい埃がひっついて、スラックスに撫でつける。
「小谷さんとこ変な宗教入っちゃったって」
「なんでよ」
「ほらあそこってもともとちょっとねえ、変じゃない。特に奥さんが」
「もともと奥さんが入ってたんでしょう」
「そうよ、一時期ひどかったじゃないねえ」
「ったくおかしいんだけどね、あの人、あのー、駅前、ほら、ほら……あ、かねさか眼科、あの待合室でだってそういう話してくるんだから、あたし嫌で眼科変えちゃったのよねえ」
「あらあ」この中では若い女に入る母親がぱっと口元に手をやる。「佐野さん目どうかした」
「あたし白内障になるのこわいからね」女はそう言って手をひらひらさせる。答えになっていないが、母親は「まあ」と目をわざとらしく丸くして、「そうですねえ」と言う。
 女たちの声は高いのに低く、波があり、それがずっと頭上で漂っている。息がしづらいのは気のせいか――冬真は背中をひどく丸めたままタルトにフォークを突き刺した。バターとクリームのにおいが甘ったるく鼻先を包む。銀色のきっさきが入った生地はぼろりとくずれ、彼がフォークを動かすたび崖のように欠けていく。カスタードクリームがダムの決壊によく似た動きで皿へと流れ出し、彼は呆然としたまま、生地のかけらをそこに押しつけて口に入れた。マスカットの酸味が舌の先端で爆ぜたがすぐに失せていった。
 冬真はとにかく早く食べきることだけを考え、必死に押しこんだが、甘いものはそれほど好きではなく、特にクリームの乗ったケーキは苦手だった。
 舌にはりつく甘さと牛乳臭さというのか、独特の風味が鋭く鼻腔を突いてくる。じゃく、じゃく、自分の咀嚼音がこめかみのあたりで反響していく。あついのにぬるい紅茶で流しこむ。ケーキはどんなに小さく齧っても喉に引っかかって溜まっていく感覚がある。茶葉のにおいがなまぬるく走り、腹のあたりに落ちていく。
 おえ、と彼は俯いたままえずいた。母親も女たちも彼には気づかずしゃべり続けている。背中が震え、彼は一度大きく息と唾を一緒に飲み下し、唇の隙間から空気を吐き出した。カスタードと紅茶の混ざったにおいがする。決壊したダムの上に転がったマスカットはふたつにカットされ、埋まった小さな種が虫の目に見えてはっとした。フォークで刺すと、やわらかそうでかたい果実がしっかり貫かれる感覚が指先から手の甲まで這いあがった。
「とうまくんは」
 その声で顔をあげる。フォークに突き刺したままのマスカットを見て、母親が軽く彼の手を叩く。慌ててそれを口に押しこもうとしたが、彼を呼んだ女がどろどろ喋り出したのでそうしようもなくなり、行儀悪くフォークを何度も小刻みに振って皿に戻した。
「お花触らないの?」
 女の顔立ちはほとんど見分けがつかない。若くても整っていても全員ほとんど同じ印象しか残らないのだから、歳をある程度重ねた顔など余計にわからなかった。このひと誰だっけ、でもこの変にのったりした喋り方は前にも聞いた気がする。あんま、と彼はへらへら笑いながら呟き、女の顔の中に特徴を探した。見つかったのは顎のあたりにうっすら広がっているしみだった。シミ、と彼は女に名前をつけた。
 シミはぱっと見、五十後半くらいの女だった。青い模様の入った薄手のストールを首のあたりに巻き付け、白髪をごまかすためか黒染めした髪を頬のあたりでばっさりとショートカットにしている。スタイルがいいというより骨ばっているという印象で、頬骨、鎖骨、腕、手の甲など骨のかたちがくっきり見える。目は切れ長で細く、彼に向かってめいっぱいゆるやかに笑いかけていた。唇は厚く、真っ赤な口紅が少しはみ出ている。薬指にはその皮フを締めつけるようにシルバーの結婚指輪がはまっていた。
「……おれ、あの、花」まばたきを繰り返す。「よくわかんない、で、……んで」
「あらあそう」
「この子そういうの苦手なんですよ」母親が口を挟んできてほっとした。皿の上に目線を戻したが、シミが「なにが好きなの」と変わらず彼に言葉をかけてきたので首が固まる。
「あんた絵見るのは好きね」
「あッ……」母親の言葉に、思わず声が大きく飛び出した。唇を舐め、息を吸い、あ、と思いだしたふりで言いなおす。「あ、そう、っす、ね」
「なにが好きなの?」
「ああ……」
 彼はどろどろした背中を右手でそっと撫でた。汗が引いて乾いていたはずの指定のワイシャツは、再び不快な感覚で湿りはじめていた。右手をゆっくりおろし、テーブルの下で何度も握り、広げ、握り、空白を押しつぶす。右頬の奥にタルトのかすがたまっていた。舌でほじくりだす。飲みこむ。のどの粘膜がひりつくのは気のせいか。タルトの生地はかたすぎて、扁桃腺の大きな彼の粘膜には大げさに障るのかもしれなかった。前に飲み下したのに、もう腹の底に落ちたはずなのに、カスタードクリームの甘さがまだどこかに残っているような気がしてならない。
 ほほえんだシミの目は細く一本の線になる。誰かが口を開き、空気感染のように部屋の色がまた変わっていく。彼は食べ残しのタルトにとりかかり、部屋の隅でこちらに首を傾げてくる花たちから必死に目を逸らそうとしていた。花の匂い、ぬるい空調、女と年寄りの混ざった臭い、自分の汗のにおい――女たちの列の中に埋まっていく感覚。
 フォークが空ぶった。その音で女たちの眼球が一斉に彼へ向く。音を立てたのが彼だということをわざとらしく確認するための目だ、それらは数秒後、圧倒的によわいものをほほえましく見つめる色に変わっていく。埋まる、埋まっていく、からだの輪郭がどこかへ押しやられ溶けていく。感覚は拭えないまま、彼は失わないようにきつくフォークを握りなおした。

               *

「おかあさんのおなか、ビョウキみたいなんだよね」
 小鳥遊が唐突に隣へ現れたので、彼はあと少しでボタンを押し間違えるところだった。紙パック飲料は白いライトに照らされ、レーンをちゃんと通ってばたんと落ちた。生徒が乱暴に扱うせいでこのごろがたつく取り出し口に手を入れると、水漏れか水滴がいくつも腕のあたりまでくっついてきた。眉間に皴を寄せ、牛乳を取り出す。小鳥遊は退く気がないらしく、彼の隣に立ったままだった。
「……妊婦はビョウキじゃねえだろ」
 生乳、と書かれたフォントを何度も指でなぞっていた。水滴が指にまとわりついて、彼はぼんやりスラックスに擦りつける。牛乳はよく冷えていた。
 小鳥遊の頭は冬真の肩ほどにある。彼女の首筋からは今日も汗と甘ったるいベリー系の制汗剤らしきにおいが混ざりあって漂っていて、あまり長い時間隣にはいたくなかった。
 ところどころはがれたタイルに上履きが擦れ、音が鳴るのを何度も繰り返していると、小鳥遊は彼の母親そっくりの呆れた目線を向け、それからまた自販機を見つめた。うしろで女子生徒ふたりが喋りながらマスコットキャラのポーチを開け、小銭を漁りだしたのを横目に、冬真はふらりとその場を離れて歩き出した。小鳥遊は変わらずついてくる。
 取り出し口の落下音が、耳のうしろあたりで響いた。振り返れば、女子生徒は白くわずかに湾曲した腕をさっきの彼とおなじように奥まで突っこんでいた。やばっ、なんか濡れててキショーい!甲高いその声でなぞられた言葉には若干の興奮が見えた。小鳥遊は冬真の半歩うしろを歩いていたが、彼女たちには興味がないらしく、冬真の目をじっと見上げて相変わらず勝手に喋り続けていた。
「うちのおかあさん、頭もおかしくなっちゃったんだと思う」
「あ?」
「マタニティ・ハイっていうんだって、ああいうの」
「……ああいうのって言われても、おれ、おまえのお母さんのそういうの見てねーし」
「ブルーのキモイ服何枚も洗ったりおむつ買ってきたり、ベビーベッド組み立てておとーさんとにこにこはしゃいでる。あのお腹もおかしいし。かえるのおなかみたいなんだよ」
「なにそれ?」
「昔やったりしなかったの?男の子なのに?」
「なにが、」
「かえるのおしりにストローつっこんで、空気入れると破裂する」
 立ち止まる。じゅ、と牛乳が逆流した。小鳥遊はそれっきり口を一文字に結び、うざったそうにおくれ毛を手で払いのけた。それから前髪を指先でつつきだす。冬真はこみあげる吐き気をこらえ、半分残った牛乳をゴミ箱に捨てた。ゴミ袋の中で他のものと混ざりあって腐っていくさまを想像してしまって気持ちが悪い。
 彼は小鳥遊を置いて階段を駆け上がっていった。真っ白な光がところどころに溜まった階段の隅には、蜘蛛の死骸と埃が絡み合ってひとつのゴミになっている。

               *

 空調が低く唸る自室のベッドで、彼は画集を眺めていた。紙には年季の入ったにおいが染みつき、そこへ鼻先を押しあてると落ち着いた。目の前には拡大されすぎた女の肌の色が広がり、彼はそっと鼻先を離した。ただしい距離から眺める肌はまるびた輪郭の中に押し込められており、ぶらさがるふたつの脂肪は無機質な付属品に見えた。女のまなざしは確かにどこかへ向けられているものの、何度指で辿ってもその先にはなにもない。その足元には名前も知らない花が群れており、素足にあたった緑色の葉の鮮やかさがやけに目につく。触れる。跳ね返りもなくただ滑る紙の感触に息を吸いこむ。
 画集を見つけたのは小学生の夏休みだった。ちょうど虫を殺したあの夏休み。死体の入った虫かごを黙ってゴミ箱に捨て、殺したことは誰にも言えなかった。虫のことが記憶をこえて鮮明なかたちを持ち始め、彼のこころに突き刺さっていた。思うたび座ってもいられず家を歩き回り、父親の部屋に忍び込み、目につくものくすぐるように触れていたときだった。
 開いた瞬間、彼の目を撫でたのは、ひとりの女の裸体だった。それは友人がこっそり見つけたアダルトビデオの女やグラビアの女、街中で見る女のどれともめっきり違う肌の色をしていた。緑色が透けて見え、その奥に肌色と白が混ざりあって滲んでいるようだった。目を凝らせば点のように仕込まれたほのかな赤も見えた。彼は息を漏らした。
 精巧に描かれているのに、女は人間に見えなかった。生気が全くと言っていいほどなかったのだ。それは絵として完成されすぎた結果なのか、失敗した結果なのかはわからない。彼は夢中でそのページに指先を押しあて、女の目線をなぞった。その先にはなにもなかった。素足に絡む花の名前が気になり、階下で茎を切り落とす母親に聞きに行こうとしたが、結局胸に抱えて自室へ逃げ帰った。
 夢精をしたのは夏休みの終わりだった。
 夢の中で彼は絵の女に抱え込まれていた。女の肌は次第に風船のように膨らみ、まばたきの瞬間に彼を飲みこみ同時に破裂したのだった。下着の中であたたかいなめくじが潰れたような不快感で目を覚まし、手のひらに触れたそれで彼は自分が得体のしれない生き物になってゆくことをようやく理解しはじめたのだった。
 からだが小刻みに震え、右手に握りしめたティッシュペーパーごしに精液の生ぬるさが手のひらを撫でた。両脚から力が抜け、ぬるい脱力感で息をゆっくり吐き出す。涙が目尻をうっすらと滑っていき、空調のせいで乾いた頬を通過して消える。口を開けばどろついた唾液が口角のあたりでもたつき、伸びて、その不快感で自分は汚いことを知りぞっとする。
 しにてえ、と呟いた。声は出なかった。ベッドの上で両ひざをつき、垂れる精液を片手でおさえこみ、背中を丸め、目線の少し向こうに女がいる、のどのあたりで熱が爆ぜる。震える両手でべたついた感触をぬぐい取る。性器がひりつく。ゴミ箱の奥に押しこみ、そのままビニール袋を引っ張りだして口をきつく縛る。ふやけた下半身を起こしてパンツを履き、膝小僧のあたりにひっかかっていたスラックスは脱ぎ捨てる。素足にあたるブルーのカバーがかかった布団は乾いていて冷たい。
 ――あんた、絵見るの好きね。
 階段を駆け降りて、洗面所に飛びこむ。急かされて裸になり、風呂場に転がり、熱いシャワーを何分も浴び続けていた。
 透明な熱を持ったそれらがからだを滑り落ち、自然に排水溝へ消えていく。ボディソープを何度もプッシュして泡立てようとしたが、出しっぱなしのシャワーで流されていく。両手をすりあわせ、その手でからだをしつこく撫でていく。擦る。力を籠める。爪を立てる。垢が爪の隙間に入りこむ。かまわずに搔き続ける。濡れた髪が顔にはりつく。母親用のボディソープが目についた。押し出せばしつこい薔薇のにおいが鼻の奥を突き、濡れた両手で大げさに泡立った。性器に押しつけて洗う。ひりついた痛みが走っても、彼は何度も洗い続けた。シャワーの水滴に混ざった唾液が糸を引いていく。
 髪を乾かしていると、母親が洗面所に入ってきた。ブルーのプラスチックかごには、父親と彼の下着が入っている。お風呂入ったの、と母親は引き出しを開けながら聞き、彼はドライヤーの音でそれには気づかなかった。スイッチを落とすと、母親はもう一度、お風呂入ったのね、と呟いた。
「汗臭かったから」
「そう。クーラーちゃんとつけてるの?」
「うん」
 乾いた髪を手でかきまわし、彼は洗面所を出た。髪の毛ちゃんと拾ってよ、と母親が小言を言ったが、生返事のままリビングのドアを押し開ける。
 テーブルの上には大きな花瓶が置かれ、そこには母親が先ほどまで整えていたであろう花たちがけだるげにうつむいていた。青臭く、はでなにおいが充満している。花瓶の傍にはすでに誰かの花びらが一枚落ちていた。拾い上げ、においをかぎ、同じ場所に戻す。
 冷凍庫を開けると、アイスクリームのパッケージがいくつか転がっていた。父親が食べるものは指先で奥に押しこみ、ミルクアイスを手に取ると足で扉を閉める。パッケージを破り、ソファに深く腰を下ろす。
 つけっぱなしのテレビはいつの間にかよくわからないご当地グルメの紹介チャンネルになっており、タレントの中年女があきらかに過剰なリアクションでタルトを頬張っていた。マスカットが、マスカットが、と馬鹿みたいに絶賛しているピンク色のテロップを眺めながらアイスを齧る。冷たさだけが先に口内を満たし、思いだしたように少しずつミルクの甘さがにおった。マスカットのタルトの味はもうとっくに忘れていた。フォークで突き刺したあの果実の奇妙な感覚だけがまだうっすらと記憶の中にある。
「パンツくらい自分でかたしてよ」
 母親が文句を言いながらリビングに戻ってくる。音が大きい、とぶつぶつ言ってリモコンを手に取ると音量を落とす。はしゃいだタレントの声が小さくなって少しだけほっとした。
「きいてんの?アイスのゴミもそこほっぽって。ちゃんと捨ててよ」
「うん」
 大きなかたまりがぼろりと口の中に落下し、痛みに近い冷たさで声がくぐもる。
「あんたもう男なんだから」
「うん」
 舌の上で静かに割れた棒から湿った木の味が広がり、悪寒が走った。

               *

 糊付けがきついのか、金色のビニールは水上の手の中でぐしゃぐしゃになっていた。塩のついたポテトを奥歯で齧りながら、冬真は水上の長い睫毛に絡まった光を眺めていた。
「……やば、曲がりそう」水上は端正な顔だちの中で眉をひそめていた。「最悪」
「開けようか」ポテトの油と塩がついた指先を紙ナプキンできつく拭った。
「や、……開いた……あ、イロハか」
 水上が見ているのは映画の特典でもらった小さな色紙で、そこにはキャラクターのイラストが描かれていた。手のひらより少し大きなサイズのそれには、頬杖をついてコーヒーカップを持ったイロハが描かれていた。イロハの大きな二重の目の中には宝石の破片を散らばしたような光が散り、同じ色をした真っ青なロングヘアが目立つ。全五種類、と書かれた金色のビニール袋はポテトの赤い紙コップの傍にぐしゃぐしゃになって転がっている。
「イロハかわいいじゃん」ストローに口をつけ、炭酸の抜けたコーラを一気に含む。
「ノノには負けるよ」
 はは、と声だけで相槌を打ち、彼は頬杖をつくと窓の外に目線を放り投げた。視界の端で水上の白い指がポテトをつまんだりストローを引き抜いたり紙ナプキンをいじったりしているのが見えた。水上は冬真の顔をちらりと見ると、同じ線を辿るように窓の外を見た。ずらすために冬真は窓から目を逸らし、水上の横顔を盗み見る。半分は光に消され、欠けてしまった月の不十分さを思いだした。空の色はしらじらしく眩しく、まばたきで眼球が震えた。
 水上はぽつぽつとさっき一緒に観た映画の考察を喋りだした。冬真はそのほとんどをぼんやりと聞き逃し、ときどきごまかすようにフレーズをおうむ返しして返事した。水上は丁寧に手を拭い、色紙をビニールにしまい、きっちりと封の上に指を押しあてていく。皴の寄っていたビニールは水上の白い指の刺激で一瞬のび、艶やかに反射した。
「早坂さあ」
「うん」
「小鳥遊さんと仲いいの」
「え?なんで」
「最近よく一緒にいるから」
「美化委員じゃん」
「え?ああ、そうだね。それでか」
「……水上」
「ん?」
「小鳥遊さんって、弟生まれるんだってさ」
 水上は緑色のプラスチックトレーに敷かれた広告を見おろしていたが、その言葉でふっと目をあげた。長い睫毛が唐突に上向きに反り、真っ白な皿の中央へ墨を落としたような水上のはっきりした眼球がまっすぐに冬真を射抜いた。
「何歳差、……じゅうろく?」
「そうだね」
「親、」水上は白い指でそっとポテトをつまみ上げ、白い歯で思い切りすり潰した。「若いな」
 冬真は指先にまとわりついた紙コップの水滴を何度も押しつぶそうとしていた。ごく小さな虫がふんふんと彼らの頭のあたりを飛び回っており、水上はその行方をしばらく見つめたあと、興味なさそうに二本目のポテトをつまんだ。
 女子高生がトレー片手に彼らのふたつ隣のテーブルについた。三人それぞれスカートを醜く折り、そこからのびた足を広げて椅子に座っている。化粧の粉っ気が目立つ未熟な顔から両の目を素早く彼らの顔に走らせ、三人顔を寄せるとひそひそ騒ぎ出した。やたらと早口で聞こえた名前は最近映画に出ずっぱりの若手俳優のもので、水上は彼に似ているといろいろなところで言われていた。
「嫌だね?」
 頭上で水上の低い声が聞こえて、弾かれたように顔をあげた。水上はじっと、うつむいたままの冬真の頭頂部を見ていた。目線がぶつかりあうと、水上は薄い唇の端を捻り上げるようにわずかに歪ませ、わかるよね、そう言いたげに笑った。長い睫毛に絡まりそうな、水上のさらりとした長い前髪に光の粒がぶつかり、色素をまた薄くぼやかしている。
 冬真はおどおどと彼女たちを盗み見た。腰までの黒髪を下ろしたままの女は紺色の靴下が片方しわくちゃになっていて、アイラインを引く位置がずれているのか、目の高さがおかしく見える。肩までの茶髪をハーフツインにした女は桃色をしたリップの色が顔の色から浮いており、喋りながらバーガーを齧りだした金髪ボブの女は最もましに見えたが、喋り方がバカっぽく、聞こえてくる声は甲高く跳ね上がったり笑うために爆ぜたりして耳に障った。
 水上は整った顔立ちの中で唇だけを歪め、彼女たちを軽蔑した色で見つめていた。
「臭いよね」
 水上の声は言葉とそりあわず甘ったるかった。え、と思わず聞き返す。無意識で触れた紙コップから水滴が再び指先に絡みつき、冬真はそっとスラックスに押しつけた。乾いた布の感触がやけに大きく広がり、拳を作る。水上は変わらない甘ったるい声色で、臭いよね、と繰り返した。その切れ長で開きのいい目がゆっくりと細められ、睫毛たちが苦しそうに身を寄せていくのを、ぼんやり見つめていた。
「わからない?化粧品のにおい」
「……わかんないかも、しれないけど……」
「そう。早坂の母親って化粧するの」
 声がせり出した喉仏に絡まって出てこない。思いだしたのはリビングで茎を切り落とす母親の輪郭だった。毎日見ている顔のはずなのに、なぜかパーツのひとつひとつがうまく描けなかった。じょきじょき、という単調な音のあとに、ばつん、と床へ落ちて広がる茎たちの色の方が鮮明に思いだせた。
「……や」
「そう。僕の母親もそうなんだ。……でも妹は最近化粧しはじめた。僕、化粧の工程見るのすごく嫌いなんだ。顔に顔を描くんだよ」
「た、ぶん、みんなそこまで考えてないよ、」
「そうかな」
 水上は女のひとりと目が合ったらしく、その瞬間、目尻に残っていた甘ったるさも消してしまった。その冷たく整った顔を見つめながら、冬真は炭酸の抜けたコーラを鳥のように細かく何口にも分けて啜った。水上には五つ年下の妹がいたが、不細工で有名だった。まひろくんはかっこいいのに。まひろくんの妹なのかわいそう。きょうだいってぐろいよねえ。ませはじめた同級生たちが楽しそうに囁き合っていたのをまだ覚えている。水上の母親も父親も冬真は見たことがあるが、うすっぺらくぱっとしない顔をしていて、なぜあの血筋で水上のような顔立ちの子どもが生まれたのだろうと疑問に思ったのを覚えている。
「気持ち悪」
 水上は低く呻き、開いたままの唇に栓をするようにストローを咥えた。水滴にやられた紙ストローの感触が気に入らないのか、額にはわずかな皴が寄る。
 冬真は水上のことを最も健康的な男だと思っていた。水上の言葉は淡々と、蟻の行列を先頭から順番に押し殺していく様子に似ている。水上の、白いのに透けない肌の色にはねていく光の粒に目を凝らしながら、冬真はゆっくりと最後のコーラを飲み下した。冬真の、開けないまま放りだした金色の色紙のパッケージがひときわ眩しく反射し、眼球に爪を立てていった。

               *

 水上は常に女たちの目にとらえられ、その目で犯されていた。
 雑多な教室に目をやると、どこにいても水上は確かに目を引く。真っ黒な髪は清潔に揃えられ、襟足は短く、そこから細く長い首が見え、顔の輪郭は細く、それでもなよなよとした印象はない。からだは健康的な男そのものの線でもってまっすぐ書かれている。長い手足、小さい顔、大きく涼しげな一重の目、高い鼻筋、薄い唇。水上の容姿には、少女漫画のヒーロー顔という言葉がしっくりくる。水上の命はからだの奥にはなく、自由に、それでいて手懐けているように見える。水上は自分そのものを、まるで風船持つように扱っているのかもしれなかった。冬真は自身がこのごろ少しずつ確かにからだの奥へ押しやられていく感覚がぬぐえなかったが、水上にはそんなことは起きないのだろうと思わせるなにかがあった。
 水上には何重にも壁がある。一枚一枚は薄く、何枚かは簡単に割らせてくれる。だから水上に関わる同級生たち、とくに女たちは彼の内面を知った気になる。水上の傍にいて、冬真は常にそんな光景を目の当たりにしていた。
 ホームルームが終わり、部活動やアルバイトに向かう生徒たちの呼吸は丸く熱した透明なかたまりになって教室に充満していた。冬真は美化委員の仕事があるせいですぐには帰れず、小鳥遊の席まで視線を遠慮がちに飛ばしては、五時間目に配られた現文のプリントの角を揃えたり、時計を見上げたりしていた。その視線の奥に水上の背中があった。
「まひろ」
「まひろさあ」
 水上のまわりには女子が三人、ひとつのかたまりのようにまとわりついていて、それは大きなひとりの女にも見えるほど、気味の悪い迫力があった。水上は穏やかな表情の奥でうっすらと唇の端を歪ませており、微量な緊張と拒絶が見えた。彼女たちは嬉しそうにことあるごとに水上の名前を呼ぶ。まひろさあ、さっきのプリントだけど。まひろって夏休みなにするの。まひろインスタいつ教えてくれんの。水上は色のない返事をし、ほほえみ、目を伏せ、ゆっくりとまばたきを繰り返し、ときどき疲れたように黒板の隅を見つめていた。
 クリーム色のカーテンが風に膨らみ、そのたび窓から光が刺さり、クラスメイトや水上や女たちの顔をまだらに照らす瞬間があり、一層激しい光が冬真の目を貫いた次の瞬間、水上の枯れたまなざしがゆるやかに彼をとらえた。
「ねえ早坂」その唇の動きは湿ったように滑らかだった。
「あ、うん」
 水上はほほえんだまま器用に椅子と机を避け、冬真の半歩前でようやく足を止めた。彼より頭半分高い水上の背丈分影がおりて、冬真の目の前はわずかに薄暗くなった。水上は泣きそうな顔でほほえんでおり、その背中の向こうには六つの大きな目があった。
「なんでもないんだけど、たすけてくれる?」
「うん」
「ありがとう」
「まひろ、帰るの?」六つのうち二つの目がぎょっと冬真を見つめている。その目から飛び出ている視線が刺さり、むずがゆく、彼は落ち着かない気持ちだった。
「用があるから」水上は振り返らず、冬真をじっと見つめたままそう答えた。六つの目はその言葉で次第にゆるまっていき、やがて消えた。
「ありがとう、早坂」水上はもう一度、今度は囁くように細い声で呟き、紺色のバッグを肩にかけると静かに教室を出ていった。教室にはもう三人ほどしか残っておらず、冬真は教室の真ん中に置かれた自分の席で呆然と立っているだけだった。
「ハヤサカくん」
 背後で小鳥遊の声がした。窓から射しこむ光はいつの間にか黄味がかり、誰かが開け放していったドアとその奥の廊下の更に遠くから、ぼんやり金管楽器の音が鳴っていた。小鳥遊の黒髪は変わらず高い位置でひとつにくくられ、産毛は黄金色に光っていた。小鳥遊の手には、いつも教室の後ろに放置されている、ぞうの形をした青い如雨露があった。
「早く水あげて、早く、帰ろう」
 わかった、と冬真は口の中で答えた。
 ぞうの形をした如雨露からはときどき、たっぷりとした水の音が鳴った。目のあたりに張られたシールは片方が失われ、ぞうは片目で明後日の方向を見つめていた。剥がれたもう片方の目のあたりには、粘着部分だけがうっすら残っており、細かい塵や誰かの短い髪の毛がはりついていた。彼らは教室の窓辺で放置されている小さな植木鉢と小さな花瓶の前に立ち、半分以上枯れて色あせたそれらを見おろしていた。
 あげてもきっとしかたないね、と小鳥遊は呟き、それでもしんとした表情でゆっくり如雨露を傾けた。落ちていく水の眩しさで少し目が痛む。
「ねえ、水上くんって、すごく綺麗な男の子だよね」
「水上?」
「綺麗。顔が。顔の綺麗な男の子って、セイのにおいがしない。水上くん見てると、そう思えなくって怖くなる。でも綺麗な男の子だって、みんなとおんなじように汚いんだよね?」
「……なにそれ」
「綺麗な生き物にはセイがないって、みんな、つい、思っちゃうんだよね」
 キョクタンなこと言うとね、と小鳥遊はひとりごとのように呟いた。……綺麗な生き物は汚くないと思うよね、当たり前だよね、なんかさ、セイがないの、性別のセイと、生きてるってほうのセイ、全部ないの。お人形さんみたいだよね、あたしそれが羨ましいんだ、羨ましい、あたしはきっと不細工ではないけど、自分の中でにおうセイを押しこめるほどの綺麗さは持って生まれてこなかった。羨ましい、水上くんが羨ましい。
「……水上のこと、好きなの?」
 そう聞くと、小鳥遊はひどく嫌な顔をした。不機嫌そうに如雨露を揺すり、最後の一滴までゆるさないというようにしつこく雫を落とし続けた。それからふと、マビコウカ、と呟いたので、彼は思わず聞き返した。小鳥遊はまた嫌な顔をした。
「まびこうか、って、言ったの。まびく」
「……マビク?」
「そうだよ」
 小鳥遊は如雨露をそっと置き、ようやく湿った花に手を伸ばした。ちゃんと育てればこうなる、という手本のような写真付きの紙は日に焼け、インク落ちした文字は薄い緑と青の混ざったような色になっていた。
「かわいそう」
「え、なにが?」
「この花、あたし、中学のときにも教室で見たな」
 めしべが大きい花だ、と小鳥遊は言った。
「ねえ、女の子ってすごく図々しくて残酷だよね。さっきの水上くん、かわいそうだったな」
「見てたんだ」
「見ていたっていうか、目に入ってこない?彼って。線が違うから。浮いてる」
 小鳥遊はぶつぶつと間も置かずに花びらをむしりだした。その白く、脂肪のやわらかそうな手の中で、千切られた花びらたちはきつく身を寄せ合っている。小鳥遊の睫毛には先ほどよりもしつこく光が絡まり、小鳥遊は眩しそうに何度も目を伏せていた。
「ああいうの見ると、あたしはお腹痛くなっちゃうな」
「なんで」
「だって、わかるんだもん。あたしたちもうただの動物になってくだけなんだなって。大人ってさ、思ってるより全然かっこよくないし、大人っていうのは、ただ本能に忠実に従っていくだけの生き物なんだよ、知ってた?子どもの方がそうだって思ってる?あたし、弟のことでわかったんだ。大人って生きるためにいろいろ削ぎ落しているのに、本能に対してはとても欲深いんだよ。……ハヤサカくんはさ、男の子だからわかんないかもしんないけど、あたしだって女のことしかわかってないけど、……もうこのごろ女の子って気持ち悪いくらい強欲になってるの。だから水上くんは毎日そうやって女にオカサレテルじゃない?」
 爆発して死んじゃいそうで怖いの、と小鳥遊は息継ぎの隙間でまた喋った。一気にまくしたてたせいか、若干呼吸は荒く、うっすらと小鳥遊の唾のにおいがしたように感じた。
「あたしたちそろそろ爆弾に気づくよ」
「……マジで、」のどが嫌に渇いていた。「小鳥遊の話、ムズい」
「あたしたちは、お母さんのおなかのなかにいるときから、爆弾しこまれてるの」
 彼の目は小鳥遊の手に囚われていた。小鳥遊はまくしたてるうちに手に力がこもりはじめ、ついには握っていた花びらを一気に潰してしまった。音もなく死んでいったそれらを閉じ込めた指はうすら赤く、彼はただ、そこから目を離すことができなかった。
「君のは飛び出ていて、あたしのは埋め込まれてる。女の子は最もひどく爆発するようにできているの。あたしはこのごろそれがわかった。すごくうんざりしてる」

 のどかわいたね、と小鳥遊が言うので、ふたりは昇降口あたりの自販機へ向かった。階段を一段一段、彼らは踏みつぶすようにしておりた。一歩一歩に細かい塵が舞い、カーテンすらないむきだしのガラス窓から突き刺さる光できらきら踊っていた。
「今日さ、ねずみあげたの。あたしの梟に」
「ああ……飼ってるって、言ってたね」
「うん。ぶちぶちした茶色い模様が混ざってる、灰色の羽の子。餌がグロいんだよね。小さい冷蔵庫があるんだけど、それは梟用に買ったやつでさ、お父さんが冷凍のねずみとかいろいろを入れてるの。それを一匹ずつあげるんだけど、気分がよくないんだ。今まではそういうのお父さんの役目だったんだけど、ほら、今、マタニティ・ハイの巻きこまれ患者だから。今正気なのはあたしだけなの。だから弟のことで頭一杯で忙しいあの人たちのかわりに、あたしが今は梟の母親なんだよね」
 それから小鳥遊は梟の話をゆっくりと続けた。階段を踏みしめながら彼はただ聞いた。
 自販機は今日も目障りなほど眩しいライトで光っていた。遠かった楽器の音が、昇降口のあたりでは大きく膨れ上がって耳を突いた。すぐそこにいるのかもしれなかった。小鳥遊はプリーツスカートの右端に手を深く入れ、小さなポーチを取り出すと小銭を手のひらに出し、数え、丁寧に自販機へ入れ、ボタンを押した。起動音と一緒にバーが上がり、小鳥遊の指定した番号の紙パックがひとつ突き落され、取り出し口に運ばれていく。
 小鳥遊は取り出し口に手を入れ、まさぐると、よく冷えた牛乳の紙パックを拾い上げた。機械から漏れる水滴で、ブラウスの肩口が小さく湿っていた。冬真は尻ポケットから小さな折り畳みの財布を取り出し、千円札を飲み込ませると小鳥遊と同じボタンを押した。小銭がばらばらに金属音をたてながら、釣銭口まで落ちてくる。何枚かまとめて掴もうとすると一枚が転がり、握りしめた小銭は機械に温められひどくぬるかった。
 もう一度突き落され運ばれていく牛乳を、ふたりは数秒間見つめていた。
「……梟の別名って知ってる?」小鳥遊の両手は紙パックを愛撫しているように見えた。
「え?」
「フコウドリ」
「不幸」
「そう、不孝。梟はね、母鳥を食うって信じられていたの。だからおやふこうもの」
「ああ……」
「あたしたちみんな、梟とおんなじだね。おかあさんを食って生きてきたの。わかる?おかあさんって、もう二度と女には戻れないんだよ。おかあさんっていう、人間とは別の生き物になるの。一度でもなってしまったら二度と人間の女には戻れないの。そうなってしまったのはあたしたちのせいなんだ。あたしたちはそうやって食いつぶしてって、そのうちはんたいに食われる側になってく……あたしはね、おかあさんを食うのはあたしだけがよかった。男である弟になんて、分け与えたくないんだよ……」
 小鳥遊はストローを押し開けると咥え、しばらくそのまま齧っていた。先端をその歯に潰されたストローは、窓からの日光を吸いつけて透明に光っている。
「……弟、いつ、生まれんの」
「わからない。もうすぐじゃないのかな……」
 小鳥遊は目を伏せ、目を上げ、ストローの先端を静かに紙パックへ突き立てた。ぷつりとかすかな音をたて、ストローは間抜けな頭だけになる。薄皮の剥けた小鳥遊の唇は、クレヨンのぼけたさくら色と同じ色をしていた。彼女はその隙間へストローをさしこみ、大きく一口を吸い上げ、飲み下し、冷たい、と泣きそうな声を出した。

               *

 夏休みまで二週間を切った。
 路上には干乾びたミミズが目立った。バッグをかけた肩回りにはひときわ汗が滲み、ぬるい風が吹くたびそこだけがやたらと冷えた。こめかみに滲んだ汗で前髪は湿り、額にまばらにはりついている。
 顔を滑った汗を手の甲で雑にぬぐい、冬真は校門を出た。日光が反射した錆色の校門は重々しく視界に絡みつく。一メートルほど前を歩く女子生徒たちの汗ばんだ足はじっとりと同じくらい重く見える。スクールバッグにぶらさがったキャラクターのおおぶりなぬいぐるみが彼女たちの歩みに合わせて上下に揺れている。そのうちのひとつと目が合った瞬間、肩を叩かれた。
「早坂」
 水上はほとんど汗をかいておらず、その肌にはりついているのはにこやかな表情だけだった。足を止める。水上は追いかけてきたのか少しだけ息を切らしていた。
「間に合った、ねえ、今日なんか予定あったりする?」
「いや」バッグを反対の肩にかけなおす。「特に」
「駅前のアクアリウムショップ行くんだけど、一緒に行こうよ」
「え、水上って、魚飼ってんの?」
「飼う予定なんだ。金魚。今年の夏祭りで何匹か誘拐してくる」
 冗談か本当かわからない脱力感で水上はそう言い、にこりと笑った。冬真はほとんどアクアリウムに興味がなかったが、わかった、ともごもご答えた。どうせ今すぐ帰っても、またリビングで母親と女たちがお茶を飲んでいる時間だった。
 駅前の大きな十字路まで出ると、冬真はただ水上の歩みに合わせて半歩後ろをついていった。車の通る音、信号機の音、雑踏の中で彼らはほとんど言葉を交わさなかった。
 水上のスニーカーは上品なグレーで、蝶々結びは器用におこなわれており、彼の足の甲に二匹の蝶が羽を広げて眠っているようにも見えた。蝶々は水上の歩みに合わせてゆるやかに羽を動かし、ときどき跳ね上がり、また羽をおろす、ということを繰り返していた。蝉がじーころじーころと低く鳴いており、毎年聞いているはずのその声とはなにかが違う気がした。昔教育テレビで見た、不気味な童謡の黒電話のイラストを思い出してしまった。彼は不安げに空中を見つめたが、木は遠くにまばらにあるだけで、蝉たちがどこにとまっているのかもわからず目を伏せた。

 アクアリウムショップは北口のすぐそばにあり、全体的に細長かった。建物は少し年季が入っており、それでも一歩足を踏み入れると空調がよく効いていた。歩いているうちにうっすらと腕の皮フが鳥肌になっていく。冬真は無意識に右腕を左手で強く擦っていた。
 彼らを取り囲むように青い光の入った水槽がいくつも置かれ、ポンプの音とモーターらしき音が低く這うように響いていた。蛍光の紙にポスカで書かれている値札と魚たちの名前が目に痛い。
「魚、」捻りだした声はかすれていて、彼は何度か咳ばらいをした。「魚、買えるんだ。知らなかった。この店」
「飼えるよ」
「ふうん」
「水槽が欲しいんだ」水上は熱帯魚の泳ぐひときわ大きな水槽を覗きこんでいた。睫毛の長い目がずっと下向きになり、真っ黒な目やそれを際立たせる白目にも水槽の青白い光が染みこみ、水上から温度のある生気を吸い取っていくように見えた。
「早坂は生き物飼ってるの?」
「え?」肩からバッグの紐が滑る。湿ったワイシャツの肩口に皴が寄る。「ううん、飼ってない。昔、犬がいたらしいけど。おれが産まれる前くらいじゃないの」
「そう。一緒に金魚飼おうか?」
「やめとく」
 冬真が呟くと、水上はくすくす笑った。店主は奥のカウンターでぼんやりと新聞かなにかを読んでいる。丸まった背中に張りつくようなポロシャツのベージュが薄汚く目に映る。水槽に目を向ける。一匹三百五十円が高いのか安いのか彼にはわからない。じっと見ていると魚のうろこや眼球やぬめったようなヒレのどれもが不気味に歪みだす。焼き魚の白濁した目を思いだして、冬真は背中をそっとなぞった。皮フは冷たい。やけに冷える。
「腹、減らない?」
「うん」汗で湿ったワイシャツは手のひらに吸いつく。「少し」
「なにか食おうよ」
 冬真はかすかに頷いた。真っ青なライトで浮き上がる水槽に囲まれた水上の頬やからだつきやどれもがこの日だけは不健康に歪んで目に映り、奇妙な違和感だけがそこに残った。

 ファミレスで一番安い日替わりランチを注文し、テストや今期のアニメの話をしながら向き合って食べた。平日のファミレスは空いており、窓際の席ではパソコンを広げている大人が何人かいるだけだった。店員は見当たらず、厨房から水や食器のぶつかる音が漏れていて、無機質なホールでは配膳ロボが徘徊しているだけだった。
「早坂、夏祭り、一緒に行こうよ」
「うん」
 フォークに刺した鶏肉から、トマトソースがこぼれる。白い大きなプレートに広がったそれを見おろしながら、冬真はゆっくりと口に押しこむ。いいよ、と付け足す。水上は色の薄いサラダをフォークに突き刺しながら、金魚すくいだけでいいんだ、と呟く。
「女子に、祭り、誘われた?」
 ふいに転がり落ちた冬真の言葉に、水上は手を止めた。滑るような静かな動きでフォークを置く。四本の串に突き刺さったレタスはドレッシングのかかりすぎでしなびていた。
「うん」
「……水上は、好きなやつとか、いないの、」
「いない。クラスの女、臭いし」
「なんか、ごめん。普通に聞いただけで」
「大丈夫だよ。早坂は?小鳥遊さんと付き合わないの?」
「いや、そういうのは」
 水上のスマホが震える。画面は上向きのまま放りだされており、時刻と一緒に通知が浮き上がった。女のアイコンだった。水上はどうでもよさそうに一度目をやっただけだった。
「……松本。ライン、しつこくて」
「交換したの」
「しないと帰れなかった。ブロックしたかったけど、逆に面倒くさくなるじゃん」
「確かに」
 通知のブロックの中には、「まつもとさやか」の名前の下、夏祭りいきたいです、というメッセージが表示されていた。画面を見ていた冬真の目線に気づいた水上が困ったような顔になる。ごめん、と冬真が謝ると、水上は首を振った。
「みんなすごいよね。好きな女の話とか、最近めちゃくちゃしてくる。水上は水上はってみんなが聞いてくるとき、僕ほとんどついていけない。でも好きになれるのって、すごいよね」
「……怖くない?」
「ん、なにが?」
「付き合うって、だって、」言葉が鶏肉の破片と一緒に舌に絡まる。「……そういう」
 誰かと「そういう話」をするのは冬真にとってはじめてのことだった。教室で下ネタやアダルトビデオの話を嬉々としてするのは水上や冬真とは違う種類の男子ばかりで、彼には全く馴染めなかったせいだった。不安になって水上の顔を盗み見たが、水上はさっき放置していたサラダを頬張っていた。
「……お、おれ、そういうの、汚いって思っちゃって、……うまく言えないけど、」
 思いだしたのは中庭で弟の話をした小鳥遊の唇の動きだった。きたない。その四文字を発したときの小鳥遊の目の強さと汗ばんだ頬の質感。
「……ほとんどの人はそれが正常だよ。しかたないけど」
 水上は丁寧にサラダを咀嚼し終えたあと、静かに呟いた。いってくるにゃあーん、と配膳ロボの声がホールに響く。誰かが皿をひっくり返したのか、厨房から尖った音が重なった。
「冬真ってオナニーとかしないの?しなそうだけど」
「え?」
「それも汚いって思うの?性的なことに至るのはしかたないよ。僕は汚いとは思わないけど、ついてはいけないってだけで……冬真ってアセクシャル?アロマンティック?」
「……えっと、ごめん、それわかんない。わかんないんだけど、あのさ水上……」
 水上がじっと冬真を見つめる。冬真は言葉を失っていた。のどもとまでせりあがってきたのは画集の女のことだった。股間にまた、あたたかいなめくじが張りついているような気がして悪寒が走った。水を飲み干す。氷を入れすぎた水が滑り落ちていく感覚は痛みに近い。
「きたなくない……?」
 きたない、と水上は言葉を頬張り咀嚼するように繰り返し、数秒黙ったあと、口を開いた。
「セイジョウな性的欲求って、なにか困ること?」
 その瞬間、彼は水上が知らない女と性行為している様子を想像していた。知らない女に覆いかぶさって揺れる水上のからだの輪郭は水上のものではなく、きっとどこかで見た男の肉体だった。その下であえぐ女の顔も正確には描けなかった。架空はあっさり消えた。
 やはり水上は健康的だったのだ。健康的に、正常に、狂っていたのだ。
 冬真は暴れ出す心臓のあたりを一度撫でて、いや、いや、とあいまいに笑って見せた。ムズイわ、とふざけた口調で繰り返した。こういうとき、馬鹿なふりをするとすべてが丸まっていく。馬鹿なふりをしていればいい。
 セイジョウな、性的、欲求、そのすべてとぎれた断片同士になっていつまでも冬真の脳にはなじまなかった。バラバラな言葉と繋がらない意味を諦めるようにすべてどこかへ押しこんで、冬真は置きっぱなしだったフォークをもう一度握る。小鳥遊の横顔を思いだした。
 冷えきった鶏肉にはあぶらがしつこくはりついており、にんにくの効いたトマトソースでさえも冷めれば気味の悪い食感になっていた。金魚すくいやったことないなと呟いてみると、水上はいつも通りの笑い方で、そんなに難しくないよ、と言った。
 玄関に女たちの靴はなく、思わず安堵の息がもれた。母親があれこれ言う前に手を洗い、靴下を脱ぎ、リビングに入る。台所で料理をしていた母親がようやく気付いて顔をあげ、湯気の奥でおかえりと言った。
「今日、なに」
「カオマンガイ」
「なにそれ」
 冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、洗いたてのグラスに注ぐ。コンロの熱と換気扇の音で台所は窮屈だ。母親は淡々とした手つきでまな板の上に蒸した鶏肉を置く。包丁を取り出し、迷いなくその刃を下ろしていく。
 カオマンガイって、なに。麦茶を何口か飲みこんでから、再び彼は聞いた。母親はすっかり等間隔に切った鶏肉を満足そうに見下ろし、蒸し鶏の乗っかったごはん、と答えた。
 まな板の上にはわずかに黄ばんだ鶏の脂が半透明に広がり、その真ん中で鶏肉はぐったりしていた。
「おれ、昼に鶏肉食ったけど」
「知らないわよ、諦めて食べて。それが嫌なら納豆しかないからね」
 ガラスの飲み口で濡れた唇を手の甲で拭いた。今度はその手をスラックスに擦りつける。早く着替えてきて、と母親が鶏肉に構ったまま言う。耳の裏あたりで炊飯器が鳴った。昼間食べた鶏肉の、歯に障ったどこかの筋やコリコリとした骨のような部分が口の中で薄く再生され、胸焼けがした。
 のろのろ着替えてリビングにおりていく。ダイニングテーブルには今日も変わらず花瓶にささった花があり、彼と母親の食器はきっちり並んで湯気をたてている。椅子を引き、空っぽの向かいに座る。
 父親は、年齢に伴って出世していくにつれ、この家から離れていく。それでも彼の両親は仲がよかった。帰国すれば父親は一人息子と妻にそれぞれ土産を持ってくるし、家族で外食もする。彼の前に小鉢を置いた母親の薬指には、シミとおなじように食いこんだ指輪が光っている。セイジョウな性的欲求。グラスに麦茶をつぎ足しながら、彼は水上の言葉を思い返していた。両親が性行為をしている様子は、嫌悪や倫理観、それらを抜いても想像することができなかった。
 母親は少しも不幸に見えなかった。健康的に狂うのは、成長していく中ではごく当たり前のことで、水上だってそう言っていた――。
 緑のプレートに丁寧に盛り付けられた食事。丸く盛られた白米の上に乗る鶏肉はどこかで見たファンデーションと同じ色をしていて、凹凸を持ちながら脂を孕んだ皮とその下の艶のある白い肉は、やはり小鳥遊の素足と似ていた。肉汁が皿の深いところに流れて排水溝のようだった。穴のない排水溝の食事。スプーンを手に取り、一口掬って押しこむ。花瓶から甘ったるくぼやけた花のにおいがする、舌に広がる鶏肉の脂のしつこさ。埋め合わせるための白米を余計に掬って押しこむ。ゆっくり食べなさいよと母親が笑う。
 健康的なこと。性的なこと。汚いと繰り返した小鳥遊の唇。その掠れた色。スカートからのびる汗ばんだ足の肉感。うっすら残っていた毛穴と肌荒れ。シミの指輪。母親の指輪。女たちから分け与えられたマスカットのタルト、カスタードクリームの重さ、向かいの父親の空席、鶏肉が歯に挟まっていく、しょうゆとなにかを混ぜたソースの、あとに残る甘さで舌が鈍くなっていく。テーブルクロスにソースが垂れる。しみになる。すぐに。
 母親は斜め前で同じ食事をしている。ほとんどが落ちてしまったリップ、唇が歪むようにぬるりと開き、隙間から歯の色と口内の、そう、苺を踏みつぶしたような赤が混ざりあいなまぬるい質感、食欲は手を動かしスプーンを押しこむたびなくなっていく。
「母さん」
 口に鶏肉を詰めた母親は丸い目をわずかに見開き、返事のかわりに彼を見つめた。自分とはあまり似ていない顔。普段は知らなかったうすい皴や化粧のよれが目につく。水上の母親は化粧をしないんだっけ、そう思いながら彼は皿の上に残った鶏肉をスプーンでつついた。
 衝動的に呼んでいた。唇が薄く開いたまま言葉にならず、スプーンを構い続ける。母親は数秒黙ったままの冬真に対して、母親は少し心配そうな目をする。母親の顔。母親の目。この人が女であるところを少しも想像できない。この人は確かに女であるはずなのに。
「ら、……来週の、夏祭り、水上っていう友だちと行ってくるから」
「ああ、そう」母親はわずかに拍子抜けしたようだった。「神社の?」
「うん」
「そう。ごはん。足りないならおかわりしたら?」
 気づけば白米はほとんどなかった。席を立ち、プレートを持って台所に足を踏み入れる。
 夏の陽は長く、電気をつけていない台所は橙色に薄暗い。チョウホウケイの窓から床板に染みこんだ温度はぬるく、裸足にはりついていく。胃はすでに膨らんでいたが、彼はしゃもじを片手に炊飯器を開けた。保温された蓋から蒸気が水滴になって指につく。温まった白米のにおいは独特だ。鶏肉は皿の上で冷え始め、排水溝はぎとぎと光っている。その上を覆い隠すために白米を掬い、押しつけていく。舌に残ったソースのにおいが臭っている。
「ごはんどれくらい残ってる?」母親の声が明かりの向こうから聞こえる。
「まだ、」しゃもじから水滴が垂れた。「まだ、たくさん、めっちゃ、ある、ある……」
 鶏肉は薄暗いそこから彼の眼球をいつまでも舐め続けていた。

               *

 よく晴れた日だった。エアコンのない美術室には扇風機に掻きまわされたぬるい風と絵の具と濡れぞうきんのにおいが漂っていた。ブリキのバケツは洗い場に放置され、ぼこぼこに傷ついたその中身だけがすっかり乾いていた。貸し出し用の小さなプラスチックバケツに水を入れ終えると、席に戻って絵の具の箱を開ける。
 喋り声と呼吸が飽和し、視界のあちこちに色彩が散らばっていた。彼の向かいに座る地味な女子は、画用紙にしつこいほど顔を近づけ、熱心に赤い絵の具を塗り重ねていた。彼女は絵の具をほとんど水に溶かずに絵筆に乗せており、画用紙に重なっていく赤はひどく目に障った。 
 テーブルひとつあたり四人の生徒が座れるようになっていたが、冬真のテーブルは三人とも女子だったので居心地が悪かった。水上は少し遠く、小鳥遊に至っては反対方向のテーブルだ。
 教室と同じ位置に座らせないと教師は気が済まないらしく、友人のところへちょっかいをかけにいっている男子生徒は何度か注意されていた。彼の隣の女子生徒は胸が大きく、ブラウスの中ではっきりとした輪郭を持っており、その白さが浮き上がるのがやたらと目についてぞっとした。首をだらしなく下げ、冬真は自分の画用紙だけを見つめようと何度もまばたきを繰り返した。
 絵の具を手に取る。何も考えずに、最も自分に近い場所にある色を選んだ。絞り出したシアンには、わずかな量の薄黄色が混ざっていた。幼いころの擦り傷に滲んでいた体液を思いだす。かさぶたを剥いては薄桃色の肉を観察していた。あのころ、痛みにはひどく鈍かった。傷は思いだすころには綺麗に塞がり、彼の痛みを上書きしてしまった。
 水上は彼の斜め前の席で背中を丸めていた。真っ白なシャツは冬真と同じもののはずなのに、やたらと眩しく発光している。引き締まった右腕がゆるやかに動き、細い筆を使ってなにかを塗りつぶしている。美術教師の加齢臭が近くなり、冬真は止めていた手を動かした。絵の具にキャップをはめ、色に悩んでいるふりをした。なにかでいつの間にか角が折れてしまっているペーパーパレットには、あぶらぎったシアンだけが遠慮気味に乗っている。
 誰かがくしゃみをした。目線を上げ、美術教師を盗み見る。よく太っている。美術教師というのは今まで細いからだつきの中年の女しか見たことがなかったからか、冬真は授業のたび、教師を盗み見る癖がついていた。厚い肉に押しこめられた丸っこい肩は男でも女でもないかたちをしている。冬真はしばらくその不確かな線を眺めていた。
「先生」
 何人かがその声に顔をあげる。手をあげているのは小鳥遊だった。いつも通り高い位置でひとつにくくった髪の毛は彼女のうなじのあたりで毛先が浮遊し、そのうすい呼吸で静かに揺れていた。低く唸るようだった蝉の声が、いつの間にか騒がしくなっている。
「セイリがきました、トイレに行ってきていいですか」
 クラスメイト達はぎょっと小鳥遊を見た。教師は小声でいってきなさいと呟き、小鳥遊をドアまでうながした。冬真は絞り出した白い絵の具をペーパーパレットにこすりつけ、席を立った。右手の親指に赤い絵の具のかすがこびりついていた。水上だけが彼に気がつき目線をよこしたが、気づかないふりで教室を出た。
 廊下には陽の光が小さないくつもの点になって溜まっている。足の長い蜘蛛が一匹、ゆっくりと廊下を横断している最中だったが、彼の足は気がつかなかった。蜘蛛の下半身をわずかに踏んだ上履きから、ゴムの擦れる音がする。蜘蛛はよろめき、しかし潰れることはなく、人間の重さに耐えながら再び横断を始めた。
 小鳥遊は一階の、保健室と物置部屋の並ぶ廊下で立ち尽くしていた。緑色の布地が貼られた壁には、人権週間のポスターと、けがの応急処置について書かれたカラー新聞がピンで固定されていたが、どちらも生徒たちの肩口に擦れたり、はたまた故意に傷つけられたりして、皴がより、角はちぎれていた。小鳥遊は廊下に突っ立ったまま、呆然とその二枚を見つめているらしかったが、よく近づいてみるとその目はどこにも向いていないのだった。
 梟の目の裏、と冬真は思いだす。小鳥遊の家にいる大きな梟。眼球が耳の裏から見える鳥。小鳥遊は毎晩眠る前、その耳の裏に唇をつけてみるのだと言っていた。言葉をいくつかそこへ放りこむ、すると見てくれる、梟の目はいつもすべてに向いているから、あたしの言葉だってきっとちゃんと見えてる。人間じゃない生き物にしか、あたしは自分の本当を言わない。
「小鳥遊」
 小鳥遊は梟のように首だけを彼に向けた。真後ろまでは当然回らず、苦しげに傾けていた。ポニーテールの長い黒髪は一方に傾き、そこへ陽の光が強く当たり、色素を茶色く錯覚させた。まばたきが滑らかにおこなわれ、彼女の大きな目が今度はしっかり冬真をとらえる。小鳥遊はゆっくりと首を元に戻して窓まで寄ると、しばらくの間足元を見下ろしていた。
「具合悪いの」
「嘘だよ」小鳥遊は被せるように言った。「セイリって便利な嘘なんだよ」
「……具合悪そう」
「……でも、そう、……具合なんてずっとおかしいよ。ずうっと、気持ちが悪い」
「大丈夫、」
「そうだよ気持ち悪いに決まってるじゃん、あたしにとって両親は当たり前にずっと両親だった。男と女の組み合わせではなかったの。あたしにとっては……」
 小鳥遊はかすれた声で呟き、窓の外へ目を細めた。ひたいに寄った皴はひどく浅く、彼女の皮フはすべてが健康的で白かった。しばらくの間、不健康な沈黙だけが彼らを包みこんでいた。彼はその間、からだが痒くてしかたなかった。爪を立てていく。焼けた腕に彼の伸びた爪は静かに埋まり、刺さる、というよりも、飲まれていくように見えた。
「うまれちゃったんだ」
「……え?」爪の隙間に垢が溜まっている。
 さっきうまれちゃった。小鳥遊は呻き、窓に額をはりつけた。青白い顔のまま向こうのなにかを睨み続けている。光の当たる横顔は輪郭が不確かで、背景に押しつぶされそうだ。
「なにが……」
「おとうと」
 小鳥遊は顔を思いきりゆがめ、窓に額をぶつけると奇声を発し、顔を覆った。誰もいないと思っていた保健室のドアが開き、保健医が慌てた様子で顔を出した。小鳥遊はそのまま床に座りこむ。ひび割れた青と緑のタイルの上に彼女のスカートがふありと広がり、花瓶の中で一週間経ってしまった花びらに似た皴が寄った。保健医の名前も彼は知らなかった。シミに少し似ていた。保健医は小鳥遊から彼に目線を走らせ、大きく目を見張って言う。
「どうしたの」
「知りません」
 冬真はそれだけ呟き、廊下を走った。保健医は一瞬ためらったが、小鳥遊を優先したらしく、追いかけてはこなかった。どうしたの、だいじょうぶ、女の心配そうな声が廊下に反響し続け、そこに小鳥遊の嗚咽が混ざって彼の鼓膜を何度も引っ掻いていた。美術室に戻ろうとした足はその場で二、三度踊り、彼は男子トイレの奥の個室に逃げた。

 鍵をかけた手が震えている。からだの後ろ半分が重たく、ぐるぐるとした吐き気が全身にまわって、冷や汗が背中を濡らしている。濁った色の便器、鈍い色の水洗レバー、かび臭いタイル、汚れたその隙間、へこみ、落書きされたねずみ色の仕切りとドア、はじまりのやぶれたトイレットペーパー、息がうまく吸えない。汗が伝い、吐き気が加速していく。彼は何度も激しくえずいた。ひッ、という音がのどの奥で鳴った。スラックスのファスナーを下ろすより先に中へ手を入れた。衣類の中でこもった体温と手の温度差に心臓が震える。下着をまさぐり、ぬるい性器を掴んだ。何度も擦り上げる。手のひらだけが傷んでいく。痛みだけがこもっていく。きたない、きたない、繰り返した小鳥遊の唇。あのときの水上の表情。
 ドアに頭を叩きつける。ドアは軋み、蝶番が激しく鳴いた。垂れた性器に熱が残っていないか何度も握りつぶすようにしたが、別物のようだった。半開きの口から吐息と声のまんなかのなにかが漏れる。涙が浮かび、目尻から頬へ一直線に細く長く滑り落ちていく。
 彼らに仕込まれた爆弾は、じきに爆発する。                                         
                                 了

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