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短編小説「あまいさかな」

 梅雨より先に夏がくるかもしれない。
 水に溶かしたシアンの飛沫で目をつぶる。午後の陽だまりはもわもわと熱されてもはや暑くて、汗の筋がいくつも首を滑り落ちては襟首にしつこく染みる。
 ペーパーパレットのほうがいいんじゃない。
 水野はいつもそう言うけれど、私はプラスチックのパレットが好きだった。バケツは黄色。たんぽぽによく似た色だったはずだけど、年季が入ってどこか薄暗い。
 小学校入学前に買った絵の具セットを、私は今も使い続けている。更新されるのは絵筆と絵の具。ハタチになって、ようやく使う絵の具も画材屋で買うようになって、文字通りいろとりどりで、名前も複雑に増えた。色の染みついてしまった傷だらけのパレットに今日も広がった色は、青だけでいくつも名前を持っている。
 蛇口を捻る前に指先の絵の具も洗い流す。ひび割れ、古びた石でできた洗面台。外の洗い場。だれかがいたずらに握りつぶした檸檬石鹸は、青色のネットから飛び出そうと歪な形でぶら下がる。陽ざしがちらちら私の顔を照らす。夕方が近づいても、このごろ空は明るいままで。
 鼻を動かせば、春の終わり特有の青っぽい風のにおいの奥、あまじょっぱいにおいが混ざっている。向こうの換気扇から漂っている。
 ――水野があまいさかなを作ってる。
 わかったとたんに、お腹がくるくると鳴いた。水野のあまいさかなはおいしい。
「いつまで洗ってるの」
 ふと、水野の声が背中にぶつかる。それは小さい子どもがいたずらに背中にぶつける、丸っこいゴムボールの跳ね返りとよく似ている。
振り返って、筒状に水を落とす蛇口を閉める。
「さっき洗い始めたばっかりよ」
「もう十分はかかってるわ」水野は切りたての前髪の奥で眉をしかめる。「台所使える時間は決まってるのよ、早くして」
「ごめんね」
 私の笑顔を、水野は「へにゃへにゃ」と言う。今日も言われた。変なの。どうしてそんなにへにゃへにゃ笑えるのよ。いまいち素直になりきれない水野のことが、私は愛おしい。
「あまいさかな、食べたかったの。ありがとう」
「煮つけね。なによそれ、おいしくなさそうな名前」
 ふふふ、と私は笑う。
 色が白くて、毎朝櫛と熱を丁寧に通している肩までの黒髪。前髪は目にかかる前に揃えて、衣類にはいつもシャボンの香水を二回ふきつける水野。女の子らしくて、強くて、ちょっとさみしい不器用な水野。愛おしい水野は私と正反対で、でもどこかが少し似ていて、でもやっぱり反対側にいるから、私たちは深くまで混ざりあわずに済む。だから一緒にいて心地いい。水野は名前の通り澄んだ水に似ていて、私の乾いた部分に流れこんではそっと湿らせてくれる。
 あとで金魚に餌をやらなくちゃ。そう思いながら使いこんだタオルで道具を拭く。
 私と水野の部屋には一匹の金魚がいる。水野の先輩の研究室から、彼女がもらって帰ってきた金魚だ。かなり大きく、でっぷりと育ったせいで、私たちは無駄にしっかりした水槽を買いに行くはめになった。ふたりして自転車ひいひい言いながら漕いで、この寮も大学も山の上にあるものだから町まで下りなくちゃなんにもなくって、だからさんざん水野は文句を言ったっけ。それでも金魚の面倒はちゃんと見てる。
「ねむ」水野がまた私を呼ぶ。「早く」
 わかった、明るく答えて、まだ少し湿っている道具を抱えると寮に戻った。
 洗い場の奥、植物が思いきりからだを伸ばす先、まだ花のつかないねむの木がある。

 ……頬にあおいろがついてる。
 水野はそう言って、綺麗なアーチ形の眉毛を潜める。シアンよ、と言ったら、どうでもいいわよ全部青だわ、青よ、とふてくされたように答える。あまじょっぱい湯気に溶けていくその言葉に、水野らしいなと思う。水野はゼロか百、白か黒。曖昧さを嫌う。中間を嫌う。青は青だし、区分しなくったって困らないわ。そう言いたげなまなざしがお味噌汁のお椀に注がれる。
 女子寮には共用の台所があって、使っていい時間帯が決まっている。私と水野の三〇五号室は夕方、四限の講義が終わってすぐの時間帯。この時間帯は急いで帰らなくちゃいけないし、買い出しの時間もないから水野は嫌がっているけれど、そのおかげか静かに食事がとれるから私は嫌いじゃない。大きなダイニングテーブルは、ふたりだけだとかなり余る。
 レンジでチンした冷凍ご飯は、それでも白くつやつやとしている。厚揚げと長ネギのお味噌汁に、時期も終わりに近づいてちょっぴりかたくなった菜の花のおひたし、あまいさかな。すべてがシンプルで、でも厚手で丸っこく綺麗な器に入っている。
 水野のごはんはおいしい。家庭の味を知らないとこぼした私にはっとした顔をしたあの日から、水野は私がなにを言っても頑として食事を作る。お父さんが大作家で有名で、お金持ちの水野。ひとりっこだけど親戚がたくさんいて、祖父母もいて、両親から大事に大事に育てられた水野。高潔で、透き通っていて、どこまでもまっすぐで、曲がることのない水野。
 おかわりしたい、と言うと、水野はしかたなさそうに笑って、まだごはんがあるわ、と言う。
 頬杖をついて、水野の背中をぼんやり見つめる。ああなんか、どうか、……彼女がどうか、ずっと幸せでいてくれたらいい。心からそう思ってる。こんな私を知った人は、みんな、重いよって笑い飛ばすかもしれないけど。でも本当だ。水野はどうか、ずっとこのままで、それで、ずっと幸せでいてほしい。

 あなたって絵の具のにおいがする。
 水野がはじめて私に向けた言葉はそれだった。今でも覚えてる。
 水野は名前もわからない花のような香りがした。私の絵の具のにおいと、水野の花のにおいが混ざった相部屋、入学式前、三月の終わりの昼だった。まだマットレスを置いただけの備えつけパイプベッドに、まっさらなキャンバスを立てかけて、私は新しい絵の構想を考えていたところだった。ルームメイトの水野は三回のノックのあとドアを静かに開けて、私を見て、それからあの言葉を言ったんだった。
 水野と私は、きっと出逢うことになっていたんだと思ってる。はじめて会った日、私は彼女のまなざしや紡ぐ言葉をなぞる高くて消えそうな声を、ずっと前から知っている気がしたから。
 そんないつかのラブソングの歌詞じみた確信が、なぜか今でも残ってる。
 はじめて逢った気がしないの、確かはじめてふたりで向き合って食事をとった日、私は思ったままにそう言ったことがある。水野は酸っぱいものを噛んだ顔をして、どうしてねむってそんなになんでもかんでもありのまま言えるの、と呟いた。
 水野は私の不器用なあまり曲がれないまっすぐさを、酸っぱい顔して受け止める。私は水野の器用なまっすぐさを、いつまでも愛おしいと思ってる。
私と水野の生活は確かにそこに存在している。今もそれは続いていて、だけど、だけど私たちは、あと一年もすれば別々になる。
 ねえ、いっそふたりでアパート借りようよ。
 いつだかそう言った夜があった。仕切りのカーテンを閉めずに、それぞれベッドに寝転がって天井を見上げていた夜。水野は私の言葉に一瞬目を細めた。それは薄暗い豆電球のオレンジ色の中にぼやけていた。それから壁側に寝返りを打って、むり、と呟くように言った。
「どうして」
「だってねむは自由でいなきゃいけないから」
「私ずっと自由よ、自分勝手なくらい」
「ううん、だめなの」水野の背中は上等な白い厚手のブランケットに覆われてしまって、それは水野に雪が積もったみたいに見えた。「二年間だけの暮らしだからいいのよ」
 ねむはずっと自由でいないとだめ。
 水野はその日からよくそんなことを言うようになった。そうしてそんな言葉を言うときには、決まってどこか痛むようなまなざしを私に向けるのだった。

 金魚の名前は決まっていない。
 名前をつけるのもなんか嫌で。そう言ったのは水野だった。
 青いポリバケツに移した金魚は、日差しの下でぐるぐる泳いでいる。今日も晴天、水道の蛇口から落ちる水の透明さと透けていく光のまぶしさに目を細めながら、水槽を丁寧に洗う。
「金魚、ほんとにおでぶちゃんね」
 私がスポンジで藻を擦りながら言うと、隣で水野が笑った。
「食べすぎなのよ、誰のせいか知ってる?」
「私」私はそう言って、ふたりでくすくす笑う。水野が私の肩に自分の肩をそっと押しつける。
「……ねむ」
「うん」
 耳たぶに触れる水野の声の、細くて澄んでいてすぐに乾きそうな色。シアンを思いだす。
「矛盾してること言うの、ずっとこうしていたかった。二年間だけなんて、切ないの」
「切ない?」いくら洗っても、金魚の生臭さは変に甘ったるく残る。「どうして」
 水野は困ってしまったみたいに口を噤んだ。私はスポンジから手を離す。金魚のにおいは、そこにいなくてもしみついている。洗い流して全部もとに戻して、澄んだ水を入れて、カルキ抜きをする。薬液を垂らす私を見て、水野がうっすら、また唇を開いた。
「カルキ抜きのにおいが嫌いだわ」
「におい、する?」
「……ねむは鈍いのよ」
「そうかも」
 私と水野とはいつまでもわかりあえない部分があって、些細なのに山盛りのそれは、私と彼女との間に綺麗な隙間を作り出す。私たちはそこをすり抜けようとはせずに、その隙間で手を繋げあって、それも指先をただくっつけあうような緩さで、だから私たちは一緒にいられる。
 でもときどき、わかりあえないことが息苦しい。
 切ないの、そう言った水野は私の同意を求めた目をしていた。わかっていたけど、同じよ、と言うことはできなかった。いくら愛していても人はいずれ離れる。同じ所へずっと一緒に共生することはできない。花すらそれを知ってるのに、人は、できない。私は二年間の水野との暮らしを愛している。でもあのとき水野は言ったんだ、ねむは自由でいなくてはいけないから、だから一緒には住めないと。それなのに切ないなんて、水野はおかしい。
「カルキって神話に出てくる名前だわ」
 裏の成分表を眺めていた水野が呟く。じゃあ語源はそこかな、と私は返す。神話に出てくるのよ、白い馬に乗った英雄よ。……それを抜かないと魚が死んでしまうのって、なんだか、奇妙ね。意地悪な話ね。水野はぼそぼそと続けて、やがて屈んだ。ポリバケツの中を回り続ける金魚を見つめるその睫毛が長く、眩しい夕日がそこに絡む。気づけばもう午後は虫の息だ。
「白馬の王子様みたいね」
 私はただそう言ってみた。水野はもうこちらを見なかった。その細い指先をポリバケツにそっと入れて、ぬるそうな水を弾き飛ばすだけだった。

 水野には恋人がいる。
 一度、写真を見たことがある。誰かに引きで撮ってもらった品のいい写真だった。同期の子たちがのろけで見せたり、ストーリーにのっけたりしている自撮りとは違った。ホールのロビーらしき場所を背景にして、水野は紺色の質のよさそうなワンピースを纏っていた。恋人は彼女の頭ふたつほどは背が高く、すらりとして、また品のよさそうなシャツを着た青年だった。ふたり並んださまは、バランスの良さを感じさせた。
 としうえのコンダクターだと言う。
 こんだくたあ。びっくりした私は赤ちゃんみたいな発音で繰り返していた。なにそれ、目を丸くする私に、水野はどっかつんとした表情で写真のうつるスマホをテーブルの端に寄せ、指揮者よ、とつまらなそうに呟いた。
「すごい人じゃん」
「すごくないわ」なぜだか水野は恋人の話をするとき機嫌がよくない。「なろうと思えば」
「ねえどこが好きなの?」
 私はいつも通りの質問をした。水野以外の子にだって普通にする質問。好きな人のすきなところ。当たり障りのない質問。だれもが少し恥ずかしそうに、それでいて自慢げに喋るそれ。
「……考えたって難しくてわからないわよ」
「そう」
「どうしてそんなこと聞くの。ねむは」
「だって恋人って、いずれは結婚するかもしれない人でしょう。水野にそういう人がいて、それもコンダクターなんて素敵な人で、私嬉しいと思ったの」
 嘘なんてなにもないのに、水野は泣きそうな顔で首を振ってしまった。
 私と水野とは、いつもわかりあえない。わかりあえない、わからなくていいもの、がたくさんある。それでももう一年以上、隙間で指先を絡めあっている。

 金魚は贅沢に育つ。あがる水泡は、夏の昼間に注いだ炭酸水の粒に似ている。
 金魚を眺めながらぼうっとしていた。開け放した窓から、独特の夏のにおいがする。梅雨はもう死んだんだ。気がつく。水道脇のねむの木がそういえば花を咲かせた。夏が来る。
 そうしてねむの花が落ちきって雑草にまみれていつの間にか消えて、夏休みが始まり、家族のいない私は特例として寮に残り続けていた。みんなは帰省していった。水野も。
 私は金魚と夏を過ごした。話し相手も金魚だった。料理のできない私は共用の台所で電子レンジを使い、冷凍のパスタやレトルトカレーを食べた。味が濃くて、水野の味に舌が慣れていたんだとそんなことに気がついては水を飲んで誤魔化した。しんとしたダイニングテーブルにあまいさかなが並ぶことも、向かいで水野が笑うこともなかった。アルバイトに行って、そうでなければ自室でぼうっと画集を眺めたり、絵を描いたりしていた。
 週に一度、水野から電話があった。
 水野は父親の持つ別荘でゆっくり過ごしていると言った。父親は有名な作家で、水野が小説やら芸術をよくわからないのが困ると言うから私だって困るんだと水野はぼやいた。わからないものはわからないのよ、ねむみたいな感性が欲しかった、そう言うけれど、私だってたいしたことない凡人だ。絵が好きなだけの凡人だ。
 水野は芸術に興味がない。
 あおいろはすべてあおいろだと言うし、白か黒か、いや白なんてないとか黒なんてないとかそのはざまが何色だとか、そういうことを繰り返す芸術が好きじゃないんだ。水野はそういう煩わしくも繊細で大切なことにとらわれていないから、美しいのだと私は思う。でも水野は、そういう自分を手に余らせて、どうにもできなくなって泣き出したくなると言う。
 そんな水野が羨ましいという私の感性は、ちゃんとしたものじゃない。いっそ私は水野みたいにわかりませんと投げ出して平気な人間になってしまいたい。でもそれはかなわないから、私は週に一度の水野の電話を待って、金魚と暮らし、あたためた簡易的な食事をとって、それっぽい感覚をそれなりな感覚だと思いこむようにして絵を描いている。
 なにもない。それ以外になにもなかった。そんな夏だ。

 八月最後の週、水野やみんなが帰ってきて、まるで私と金魚以外いなくなってしまったんじゃないかと疑っていた寮は、すっかりもとの騒がしさと明かりに包まれた。
 部屋に帰ってきた水野は鞄を下ろすなり、私を見つけると駆け寄ってきつく抱きしめた。水野から私に触れることはあったけれど、こんなに強く触れられたのははじめてだった。薄暗く、まだ電気をつけてもいなかった部屋で、私たちは数分間抱き合っていた。カーテンが揺れて、虫の羽を擦り合わせる音が聞こえ、夏の終わりのにおいと誰かがこしらえているカレーのにおいがここまで漂っていた。その奥で水野のにおいがした。
 こんなに近いのに、水野のにおいが一番遠かった。
「結婚するの。卒業後。あと二年したら私、結婚するの」
 ただいまを言う前に、水野はそう呟いた。けっこん。私が囁くような声で繰り返す。結婚。水野の発音する、けっこん、は、ちゃんとした字で変換された。私の声だけ不確かだった。
 早いなあと思った。あっけないなあと思った。でも、私は、嬉しかった。
「おめでとう」
「……ねむ、」水野は私より背が低いから、腕の中じゃ顔が見えない。「嬉しそうね」
「だってきっと水野は結婚したくてするんでしょう。幸せなことだよ」
「……したくて、するのよ。そうよ」
 水野が腕を緩める。私たちは自然に離れる。
 水野はすねたような、泣くのを嫌がって堪えているような、そんな顔をしていた。
「嫌なの。嫌だ、こんな自分が嫌なの。でもなにかになるためのやり方もわかんないわ。だから平凡の幸福を歩くのよ。平凡の幸福なんてものが手に入る環境に生まれてしまったことが、私の最大の幸福でありつまらなさなんだわ。つまんないのよ、私ってつまんないの」
「つまらないなんて言わないでいいのに」
 ぼんやりと言って水槽を見ていた。薄暗い中静かに響くポンプの音で眠りにつけそうだった。
 金魚はきっと変わらず口をぱくぱくさせているのだろう。いつも餌をやりすぎてしまう。呼吸のためかわからないけど、金魚のあの口の動きは、空腹と渇きを訴えている気がするから。
 水野は俯いた。それから、みじめよ、と言った。私は本当にわからなかった。水野に何が不足しているのだろう。恵まれ、自由で、私の欲しいものをいつでも持っていて、切り分けてくれる水野。白か黒かはっきりしていないものが嫌いで、それを好きになれない自分に泣きそうになってしまうほど実はやわらかいところがあって、これから幸せになる水野。みじめですか。嘘でしょう。みんなそう言うに決まっている。だって私と水野を並べてみて、軽く背景を説明して、さあどちらがみじめですかと聞いたら百人中半分以上は私を指すだろう。なのに。
「あなたといると、自分のみじめさを知るわ。強くないもの。私は強くないの。守られてきたせい。でもこういう悩みは誰にでも言えるわけじゃない。嫌味になるからよ。よく知ってるわ」
「水野の何が悪いのよ」
「悪いわ。私、苦労を知らないもの。だから平気でそうやって間違える」
「気にする人と一緒にいなきゃいいんだよ。私は気にしないんだからいいじゃない」
「でも離れるわ」
 水野の声はどこか震えていた。
 ねえ、ねむは怖くないの。
 怖くないわと首を振った。水野は私に腕を伸ばし、私の薄手の白いカーディガン、その袖口をきゅっと握って、そうしたら私に皴がよって、カレーのにおいはさっきよりも濃い。
「結婚したらどうしたってその人のものになるのよ。私はもうひとりきりじゃいられないの。絵を描くあなたの横にいたいと思ったわ。友人として。これからも。あなたが家庭の味を知らないなら私の家庭の味を切り分けて与えたかったし、あなたがそのまま筆を折ることがないように傍にいたかった。でも私は結婚を選んだし、結婚したら私は男の所有物になるの」
「助けられてないよ、はじめっから。私は私、水野は水野。境界線はあったわ。最初から」
 水野は傷ついた顔で私を見た。
 私は水野をやっぱり美しいと思った。
「でも水野のことが好きだよ。人間として。大好きだよ」
 嗚咽を漏らしはじめた水野を抱きしめる。水野が私をきつく抱きしめる。また混ざりあう。

 キャンバスに鉛筆を走らせる。黒い線が布地に擦れて輪郭がうまれていく。陽が進み、日が過ぎ、やがて絵の具を絞り出す。絵筆の水で溶かして広げる。重ねていく。
 私たち、こうして手を離す。
 ふたり同時に手を離す。
 水で引き延ばしたシアンが、キャンバスに染みて、痛みを伴う。

 二年間の暮らしの間に貯めたお金で、古いアパートを借りた。三万九千円、水道代込み。東京のはずれ、ほぼ埼玉と揶揄われる町。四万以下でもベランダがついていて、晴れた日には狭苦しいそこで絵を描いた。画家になるわけでもないのに、絵は描き続けていた。派遣の仕事をしていた。最低限の生活費を稼いだらあとはベランダで絵を描いていた。誰かと一緒になりたいとか、夢とかもなくて、ただ縛られているのが嫌で、大海泳ぐ魚みたいになりたくて、ただそれだけで。結局、社会からは出られないのに、私はそれで自分を貫いたつもりでいる。
 ベランダで煙草を一本吸って、振り返れば、夕陽の射しこんだ部屋に金魚がいる。
 何年生きるんだろうあいつ。灰を水入れたジャムの小瓶に落として、思う。水野との寮生活が終わる日に、あの金魚を私が引き取った。水野は自分が連れてきたから責任を持つと言ったけど、彼女は実家に戻るのだし、なにしろ卒業後は結婚するのだし、そういうことを思ったら、私が金魚をもらう「べきだ」なんて考えにまでなって、最後のほうは粘りに粘った。
 金魚と一緒だ。あがる水泡と澄んだ水の中で、それは定期的に洗ってもらって、カルキを抜いてもらっているから綺麗なのであって、泳いでいるのは作られたガラス張りの箱でそれ以外になにもないのに、そんなことすら考えないようにしていて、私は金魚だ。
 あの日から――水野が結婚すると聞いたあの日から描き出した水中の絵を、私は結局渡せなかった。卒業式が終わってもう半年経って、まだ押し入れの中にある。これからもそこにあるだろう。捨てる勇気もない。でも水野にあげる勇気はもっとない。本当は、私からの結婚祝い、そう言っていつも通りへらへら笑って渡したかった。でもできなかった。
 水野に絵を渡すことは、なにより水野を傷つけることだから。
 気づいてよかったと胸を撫でおろして、泣きたい気持ちはかみ砕いて、退寮する日、私と水野は水道脇のねむの木の近くで別れを告げ合った。あと二年同じ大学にいるのに、連絡先だって交換しているのに、私たちあんなにちゃんと手を繋いでいたのに、最後だという感覚がぬぐえなくて、結局、あの日は最期になった。
 梅雨が過ぎて夏が来て、ねむの花が甘く咲いていた。あまいさかなを思いだした。
 今までありがとうと水野は言った。私も言った。
 ねむの花に手を伸ばしてそっと摘み取ると、私は足元に咲いていたいくつかの花も一緒にまとめて、雑草の青緑のリボンを巻き付けて、水野に渡した。
 とっても早いけど、結婚祝い。
 そう言った。描き途中のキャンバスとその長方形に作った水の中のことは言わなかった。
 水野は泣きそうな顔で私を見つめていた。
「花言葉も知らないでしょう」そう言った。
「知らないよ」私は笑った。「ただね、ただ純粋な、水野へのお祝い。私お金なくて、あはは。ばれたら怒られるから困るね。でも内緒ね、内緒にしようね、お願いね」
 水野は顔をゆがめ、堪えるように唇を引き、それからついにぼろぼろと涙を落とした。
「誰にも言うわけないじゃない」
                                 了 

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