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短編「シオ」
シオから桜の枝が生えたのは、五日月の夜のことだった。
月の光がよく射しこむ夜だった。僕の胸に閉じ込めるように抱いていたシオ。シオのにおい――太陽のにおいや炊き立てのごはんのにおいにとてもよく似ていた――それらと共存していた確かなあたたかさも失われ、残っているのは死後硬直のかたさと僕のねじれるようにあつい体温だけだった。黒い毛によく映えると思って選んだ赤い首輪には小さな鈴がついており、僕が動くたびにかすかに鳴いた。しゃり、しゃり、という音だった。
シオは僕が学校のプールサイドで拾った黒猫だった。
声がとても大きく、なあ、なああ、なああ、と僕を呼んでいた。子猫特有の青い目で僕を見つめていた。とても痩せていて、とても傷ついていた。僕はそのとき、小学生だった。
十年経ち、母が亡くなり、実家を引き払い、シオと僕のふたりで生きていた。東京の隅っこ、八階建てのマンションには大きな窓があり、陽の光が眩しく散らばり、シオはいつもそこでひなたぼっこをしていた。黒い尻尾は光が当たるとわずかな茶色に見えて、それは溶かしたチョコレートの色にも似ていた。シオは賢く、犬のように甘ったれで、鼻が弱く、年中鼻詰まりだった。病院でもらった薬を飲ませ、シオの小さな、ひみつのボタンのような鼻にやわらかく裂いたティッシュをあて、鼻水を拭ってやっていた。
十二年目の秋、シオは静かに息を引き取った。夕方のことだった。
橙と檸檬と赤の混じった夕陽がいっぱいに射しこみ、窓はくるしく光っていた。僕は泣けないまま、シオのからだを抱いて、床板に額を擦りつけ、自分の呼吸を聴いていた。だれかに謝っているような、だれかに許しを求めているような、死にたいような、いっそ、そのどれでもない気がした。シオのからだはやわらかく、ふわふわした黒い毛の中にある命はとても痩せていた。失うことを理解していながら、それを受け入れるつもりは最初からなかったのだと気がついた。
シオのからだ、皮膚、その下の骨、臓器のひとつひとつ、指先でなぞっておぼえてしまいたかった。うしないたくないね、と母親が愛おしそうにシオにほおずりしていた日が思い出され、正解のわからないままシオを抱きしめて布団にもぐりこんだ。
ただしいのはきっとシオをすぐに焼いてやり、骨になったかれを傍に置いておくことだ。わかっていても、僕は眠ってしまいたかった。シオのひとつひとつが灰になっていくことは、いつかうしなった母親の肉体を二度と取り戻せないのと当たり前に同じことで、これ以上重ねたくはなかった。ひとのエゴと僕の執着とシオの肉体を一緒に抱いて眠った。
陽が落ち、電気もつけていない、カーテンも開け放したままの窓からは、目を奪うほど眩しい月の光が射しこんでいた。真っ白な三角形が壁にうつっていた。少し開けた窓の隙間から、秋の虫の泣き声とぬるい風が流れこみ、弔いのようだと思った。
部屋には、衣擦れと僕の呼吸だけがあった。
シオのからだを押しつけていた左胸が痛い。目線を落とすと、シオのからだからなにかが突き出ているのが見えた。手の甲に擦れた痛みがある。シオのからだをそっと月にかざす。
シオのからだから、桜の枝がめぶいていた。
「シオ」
こぼれた声は唐突だった。指先をそっとあてた先端から、またゆっくりと枝が伸び始めた。ああ、という声が落ちる。シオのまぶたはしっかりと閉じられ、小さな口はわずかに開いている。閉じてやれていなかったと、揺れた指先は次にシオの口にとまる。枝は静かに伸び続け、分かれ、次々に桜が咲いていく。月の光は異常なほど眩しさを増していき、部屋の三角形はどんどん膨らんでいく。ベッドの傷やテーブルの傷、カーペットの布の質感、壁掛けの時計の文字盤、シオの使っていたキャットタワーのほつれまでも、月の光で浮き上がりはじめていた。
「シオ」
シオの口はもうかたまっていた。
桜は伸び続け、満開になり、花びらが散り始める。春のにおいがする。うっすらした寒さの中に浮かぶ草木のにおいと、桜のにおいと、……シオのからだをうしなわないように両腕にかきこむ。手の甲や指先に枝が引っかかる。桜は伸び続け、天井まで届いていた。月の光はゆるやかなさざ波と同じ速度で強弱をおぼえはじめた。眩しさが近づくたび、シオの黒い毛の、ひみつのうつくしさが僕の目に触れて離れなかった。
「シオ」
桜の花びらが舞いはじめた。虫の声は少し遠のき、桜が風に揺れる音が近くなる。
「シオ、……冬より先に、春がきたね……」
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