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ショートショート「海底で眠る」

 部屋の隅。ほつれたタオルケットにくるまっている。
 閉めっぱなしの青いカーテンの隙間には陽の光、のびて、天井で水面みたいに揺れる。
部屋は無風。天井からぶらさがった紙製モビールの熱帯魚たちは呼吸を止めて、それを見つめている私も、気づけば呼吸を止めている。ねぐせでひどく乱れた私の黒髪。
 テーブルの上、昨晩入れたままの冷たいホットミルク。牛乳の膜。そこへうっすら入ってしまった部屋の塵。
 私の枕もと。アクアリウム。小さな水槽。藻と生魚のにおい。ポンプの呼吸。
 社会の中で切り離され、社会の中にひっそりある空白に押しこまれた私のせいかつ。私自身。当たり前にできることを諦め、このごろ海中生物になりたいと願いながら、ただこっくりこっくりとたらいに雫をためていくように眠り続けている。
 朝も夜もここにはない。窓の外には確かにある。この部屋を一歩出れば出口に続いていて、その中間には食べ物があり、洗濯機があり、台所があり、出口の前には靴が何足も横たわっている。よけいなことを言わないように口をきつく結んでやったゴミ袋も。ポストには無遠慮な外界の情報がさしこまれ、すっかりよれて、それでも挟まったままだ。
 ひっそりと考える。眠りの狭間で。
 ひっそりと呼吸している。
 それでも、どうしてこうなってしまったのか、そもそも今がなにかも、わからない。
 生きるということは、わからない。
 けれど死ぬことについては、もっと、――わからない。
 まどろみから覚めて、タオルケットにくるまったまま、沈黙したモビールや陽の光が泳ぐ天井を見つめている。社会の中の空白。眠っている間にとろりと流れ出た唾液は枕と私の唇の端でかたまり、におう。私は唇をぬぐい、それからまた無意識にうっすらと唇を開いて、うすい呼吸を繰り返している。ホットミルクは、もう、飲めない。
 目線だけを上に向ける。頭上に水槽。魚たちの呼吸音を探している。けれど私の耳が拾うのはポンプの音だけで、魚たちは生きていますと言ってくれないから、不安になる。
 チャイムが鳴った。
 息を詰めた。
 ゆっくり起き上がる。乱れた髪が数本ばらけて唇に引っかかり、汗ばんだ素足にはタオルケットが絡まっている。
 チャイムが鳴った。
 は、す、とうすい呼吸音で私は自分が生きていることを知る。
 縋るように見つめた水槽の中、魚たちはじっと、皆、底にいた。
                                 了

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