思考停止になってないか?
というわけで、今回は、「自分を疑ってかかれ」というお話をしていきたいと思います。
こんにちはフクシンです。
あれ?いつしか、自分を信じて思った道を進めとかいってたんじゃとみなさん、思われているかもしれません。でも、今日は、その逆、自分を信じるなというお話です。なぜ、こんなタイトルにしたかっていうと、人は誰でも不安や恐怖をどこかに抱えています。不安や恐怖を感じないように、仲間をつくったり、物事を決めつけたりします。要するに、人は合理的な判断をしていません。
こんなことが、最近、ぼくが好きなYouTubeチャンネルで紹介されていた 西田公昭さんの著書「なぜ、人は操られ支配されるのか」と、山口真一さんの著書「正義を振りかざす「極端な人」の正体」を読みました。この2冊、とっても共感することが多かったので、ぼくの感想も含めて思ったことをお伝えしていきたいと思います。
皆さん、不安や恐怖を抱えたりしたくないですよね。
よく不惑という言葉がありますが、ぼくなんか今でも迷いっぱなし。不安と恐怖を見せないように、落ち着いているように見せてますが、内心はどきどきしたりバクバクしたりです。
でも少なくとも、今日お伝えすることを心がけることで、ずいぶん余裕が生まれたような気がします。
今日はそんな考え方をいくつか、お伝えしていきたいと思います。
僕は、人とテクノロジーをタップダンスでデザインする地方公務員としてタップダンスのお話や、コミュニケーション、キャリアコンサルタントなど、ぼくの身の回りに起こるいろんなお話を発信しています。
今回ご紹介する動画以外にも有益な情報がいっぱいあるので、ぜひチャンネル登録をしておいてください。
線引き、レッテル貼りの仕組み
人は、不完全で、不安で、恐怖を常に抱えています。それは、あなたも同じ。そのため、正しい判断、モノの見方ができているか、自分を疑うこと、視野を広げることも大切。今日は、そのことをいろんな事例を交えて伝えていきたいと思います。
僕は、子どもの頃、夜、ひとりで布団に入ると、死んだらどうしよう。そう毎晩思っていました。でも、それは24時間考えているわけでなく、学校で友達に合っているとき、そんなことを考えているわけでありません。
就職するときも、このままやっていけるかな?生きていけるかな。不安を常に抱えていました。
マズローの5段階要求説では、人には5段階の要求がピラミッド上に積みあがっていて、一番下から生存の要求が満たされると、次に安全の要求、その次が親和の要求、これは何かに所属したいという要求、さらに上に所属するところで認められたいという承認要求、一番上には自己実現の要求があります。
生きることが保証され、安全に暮らせるということが保証されるとその次に求められる要求が親和の要求。集団に属する要求です。
子どもや学生の頃のように、生存や安全の要求が満たされているかわからない状況で、救われるのはやはり友だちの存在、集団に属すること、誰かに支えられている、というのは、大事だということです。
集団に属すると、人は精神的に強くなり、さらに自分の内と外の線引きをし、安心感を覚え、さらに自分の集団を優れていると思う一方で、自分の外の集団は価値がないと思うようになる傾向にあるということです。
さらに集団では、自分たちの外を敵とみなすことにより、内なる集団の結束が固まるという仕組みになります。
SNSは、だれもが発信できる仕組みになっています。人類史上これまでこうした仕組みは初めてだと思います。いいねで共感したり、リツイートなどでさらに共感を広げられる仕組みがあります。この仕組みもある集団づくりと同じで、善か悪かの二元論になりがち、時に炎上したり、ネットリンチが起こったりします。
ネットで追い詰める人は、正義感で行っている場合が多い。つまり、自分が正しいと思い、それがドーパミンの分泌にもつながっているので、気持ちよくなる。顔が見えない関係ということからも、どこまでも追い詰めて正義を貫くという仕組みです。
SNSが炎上する場合、投稿する人は実は少数であるということがこの本には示されている。また、こうした正義を貫く人は、何か生活の中で行き詰まり、社会に不満や不安を抱えていて、他者を攻撃して不安を解消しているケースが多いそうです。
人は、単純化して白か黒か、二分化して考えた方がストレスなく過ごせるという単純化の傾向があるといわれています。また、線引きをして内と外を分けたがる本能もあり、その先には賛同すると考えなくていいという思考放棄の傾向もあるということです。
皆さんの考えは、そんな風に流されていませんか?
人は間違うからいい。
みなさん、ファクトフルネスという本、読まれたことありますか?いかに、自分が持つ固定観念やイメージが間違っていることがわかります。人の知識は結構、マスコミやSNSなどにより毒されていて、常に正しい情報でアップデートすることが必要です。
また、人は他人のミスに厳しく、自分のミスに甘い行為者観察者バイアスというのがあって、他人の行動はその人の内面に原因がある。自分の行動は環境の責任という考え方に立つ傾向があるようです。
自分も含めて、完璧な人間なんていません。
人は不完全が楽しいんです。
情報の偏りを知って、自分の正義感に敏感になる。
自分を客観的に見る、時に情報から一度距離をとって他者を尊重する。
そんなことも大切ではと思います。
寛容性を持つことが自分にも優しいことに
公務員は、社会の仕組みを支える役割です。着実に進めるのがプロとしての姿と思います。
でも、もう一つ必要なのは、市民生活に一番必要な仕組みをどう議論されて作るかを担保すること。例えば、偏った意見だけが通っていないか、議論が変な方向に行っていないか、チェックすることも公務員がプロとして持っておく必要な視点だと思います。
正義と悪とか、2分で決められるような単純なものじゃなくて、意見はそのねらいとか、考え方、それなりの理屈がある。また人はそれぞれの正義がある。それを共通理解できる人間であってほしいと思いませんか?
アートが不要不急かどうかというお話を以前しましたが、もしかしたら、アートには不安や恐怖を解消する効果があるのかもしれません。また、こうした寛容性、自分とは違う視点を与えてくれる力もあるのかもしれません。
こうした不完全な人の面白さを楽しめるにようになれれば、もっと楽しいものや人の見方ができるのではないでしょうか。
人は間違えるもの。だから、ある程度、寛容性のある、許せる人であることが、自分にも他人にも優しい人であると僕は思います。
でも、いろんなケースはあると思いますが。
まとめてみます。
人は、不安や恐怖のストレスから逃れるため、集団に属したいという本能があります。でもそれは、自分の内と外を区別し、自分と同じ集団は優れていて、外の集団は劣っている、あるいは敵とみなすことにより、安心感を得るということです。
また、白か黒かの単純化傾向、集団の考え方に流される思考放棄により、ストレスをなくす傾向もあります。
このような中で、みなさんも正しい情報をしているかどうか、疑ってみること、また人の考えに耳を傾けることが大切です。
また自分も含めて、人は不完全だから、寛容性のある人になることが、自分にも他人にも優しいのではと思います。
今日も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
YouTubeのチャンネル登録とLINE公式アカウントもよろしくお願いします。
人とテクノロジーをタップダンスでデザインする地方公務員 フクシンでした。
また次の動画でお会いしましょう。