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#65-3 航空写真でみる大阪農業の歴史

<前回の続き>
本や資料で大阪農業の歴史を振り返ってきましたが、今回は航空写真で大阪農業の歴史を感じましょう。

国土地理院のサイトで80年以上前の航空写真を無料で見れるのをご存じでしょうか?
今回はこちらから、3つのエリアに焦点を当ててみていきます。


柏原市(安堂駅近辺)

柏原市役所近くの航空写真をみていきます。

1940年ごろの柏原市

ほぼ全面に畑が広がっています。国道沿いも住宅街はほぼありません。

1965年ごろの柏原市

1940年ごろとあまり変わらず畑が広がっています。
川を挟んで対岸(写真左下)では住宅開発がされています。

1975年ごろの柏原市
1980年ごろの柏原市

特に国道と近鉄電車のに挟まれたエリアを中心に住宅街が一気に広がっています。
写真左端の地域ではほとんど畑がなくなりました。

柏原市のグーグルマップ

山の麓に残っていた畑も宅地になっています。

このように1970年ごろが一気に宅地化が進んでいます。

羽曳野市(誉田・碓井近辺)

羽曳野市のいちじく産地でも同じようにみていきましょう。

1940年ごろの羽曳野市

ほぼ全面が畑で、住宅は南西部に少しあるだけです。

1960年ごろの羽曳野市
1975年ごろの羽曳野市

1960年から1975年の間に高速道路(写真右上)が開通しています。

1980年ごろの羽曳野市
現在の羽曳野市

1980年以降、多少住宅地が増えていますがこの地域としては概ね畑が残っています。

大阪市平野区(平野駅近辺)

最後に大阪市平野区です。

1940年ごろの大阪市平野区

ご覧の通り、戦前は一面が畑になっていました。

1965年ごろの大阪市平野区

東側の地区などが徐々に宅地化していますが、まだまだ畑が残っています。

1975年ごろの大阪市平野区

畑のエリアが一層少なくなり、畑地帯にも建物が見られるようになってきました。

1980年ごろの大阪市平野区

ほぼ全てが宅地化されています。

現在の大阪市平野区

そして現在は逆に畑を見つけるのが難しくなっています。

60年前と現在では大違いですね。

大阪市都市農業振興基本計画の中にこのような表現があります

昭和 35 年の農業センサスによれば市北部の東淀川区(現淀川区含む)、市東部の 生野区・城東区(現鶴見区含む)、市南部の住吉区(現住之江区含む)・東住吉区(現 平野区含む)を中心に存在しており、本市全農地の 95%(※市内全農地は 1,542ha) を占めていました。
また、本市は大阪府下市町村の中で、耕地面積・農家戸数とも 1 位を占め、当時、 食糧事情が悪いなか大阪市民の食を支えていました。

一方、本市の経済が短期間のうちに戦後復興をとげ、その過程において農地が減少することとなり、近代以降の急激な都市化に伴い、都市農業の継続と住宅等の開発需要との競合が激化していきました。

高度経済成長期には、旺盛な宅地需要の下で、都市への人口流入に歩調を合わせ、 住宅難の解消を求める世論が大勢となり、広大な土地を抱え込む都市農業への風当たりは強まっていきました。

昭和 45 年には昭和 30 年(1,793ha)の約半分、1,000ha を切って 919ha となり、 昭和 50 年には 524ha とさらに半減し、急激に農地転用が進みました。

大阪市都市農業振興基本計画

かつて大阪市の農業が盛んであったことが書かれています。

まとめ

柏原市、大阪市ともに1970年ごろに一気に農地転用が進んでいます。
この時期はちょうど人口1億人を超えたあたりで、まだまだ人口増加の真っ只中の時代でした。

50年の中で、街並みは大きく変わります。
人口減少社会で、今後50年で街並みがどう変わっていくか想像つきませんね。

みなさんの地元は50年前どんな風景だったのでしょうか?

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