good vibration.サンデー酒場
ORU SPICEです。
ミールスをベースに考えたカレー屋をやってます。
僕のカレー作りは賃貸アパートの極小キッチンからスタートしました。
マインドがマイノリティーで会社員として組織のために自分の時間を売ることに窮屈さを感じていた若い頃から、居酒屋さんや職人さんだったり1人で生き生きと働く自営業者さんに憧れをいだいていました。
どうにか状況を打開するために、興味のあることをやってみたり、色々と試していました。
例えばハンドメイドルアーを作ったり。例えばピザ生地をこねたり、例えばアウトドアテーブルを作ったり。例えば古物を集めたり。
でもどれも、生業としての可能性を直感的に感じることができませんでした。
そんな会社員時代に滞在した北海道でスープカレーと出会いました。
北海道の札幌は、体感的に関西でいうラーメン屋と同じくらいスープカレー店がありました。
いわゆる味の優しい(薄い)カレースープではなく、すごくサラサラなのにコクが深い味わいで、丸ごと一本入ったホロホロのチキンレッグと、ゴロゴロと入った野菜が特徴的です。
まだ関西のスパイスカレーブームのこと始まりの頃だったと思います。
豊岡に帰ってきて、インターネットや書物から調べてスープカレー作りました。スパイスもスーパーのGABANの小瓶からはじめました。
そう簡単にはうまくいかず、カレー屋さん巡りがスタートしました。のちにカレー屋さんに限らず、小さな良い店巡りの趣味に繋がっていきました。
豊岡から一番近いカレーの聖地は鳥取でした。
老舗の人気店から新しいお店まで色々食べた中でアジパイさんのカレーが自分の目指したい方向だと思い、そこからアジパイさん通いが始まりました。
優しくて美味しくて美しくて、そんな一皿のカレーです。唐揚げもくそうまいです。
通って食べて、帰って作って、スプーンでカレーをすくって舌で転がしたところで、レシピの解読など到底無理でした。帰って作って答え合わせに食べに行くことを繰り返した結果、アジパイさんの味をいくら目指したって自分がアジパイさんを超えられる訳がないことに気がつき、通うことはやめました。
それならば自分にしか作れない自分のカレーを作っていこうと思い、そこから第二章的な感じの始まりです。
時系列的にアジパイさん通いの最中の頃、友人に誘ってもらって、イケオジの中原さんに背中を押してもらって豊岡で開催された新川ナイトマーケットに出店させてもらいました。2017年です。
僕のカレー屋人生の始まりはナイトマーケットという野外イベントでした。
時を同じくして、10年近く勤めた会社を辞めて、個人事業主として独立しました。独立した訳は色々ありますが、独立前年に父親を亡くしたことが最大のターニングポイントでした。
踏み出したいけど怖くて踏み出せない。
守るようなレベルの暮らしや家族もいないのに、その小さな安定を無くすことが不安で、一歩踏み出せない。そんな生活を送っていました。
自分の父親は余命を宣告されていましたが、死ぬ直前まで自分が死ぬという事実を理解できぬまま最後を迎えていたように思います。
実際、家族として話を聞いていた自分も同じ気持ちでした。淡々と余命を説明されても、まさかそんなことあるはずがない。とそんな気持ちでした。
そしてとある朝そんな日を迎えて、人生には終わりが来ることを初めて体感しました。
自分の人生において最大の勉強でした。
いつか死ぬ。明日かもしれないし。
全然うまく説明できませんが、
人生なんてあっけく終わるんだ。
っていうことを知りました。
そこから自分のテーマは
「死ぬ直前、後悔したくない最期くらい笑って散りたい。」by gadoro
になりました。
そして一世一代の決意を持って独立を宣言。
蹴られたら、辞めてカレー屋修行。と決めました。
結果として、10年近く身を置いてスキルを積んだ業界で独立して、並行してカレー屋を目指して行くというスタイルに行きつきました。
その後は一生懸命働いて、働きました。
自分のために働く感じは、それまで感じたことのない充実感でした。ですが、業界の末端の個人事業主なので、食い続ける保証はありませんでした。仕事がなくなってしまうまでに、カレー屋の準備をしてシフトして行く。そんな計画を歩みました。
ここから少し端折りますが、良い縁に結ばれて、今の女房(籍入ってませんが)に出会い、初めて家族を持った気持ちになりました。
それまでの自分からは想像もできないような環境に変わりました。お父さんもお母さんも優しくてすごく仲良くしてくれる友達みたいな感じです。
田舎はみんな結婚が早く、甲斐性のない自分は、自分一人飯を食うのも精一杯で、不誠実だった自分は、過去の償いと思って、一旦結婚を諦めていました。
まずは自分の飯が食えるのに仕事をちゃんとしよう。自分なんぞが結婚なんておこがましい。
こんなくそDNAを後世には残してはいけない。
とか、リアルにそういう考えで生きていました。
で、女房の実家に転がり込んだ自分は、女房という強いパートナーを持って新たなカレー屋人生の第三章を迎えます。
ここでカレー屋oru spiceが生まれました。
おばあちゃんの機織り工場をリノベーションしてやっているカレー屋なので、「織る」をいただいてORU SPICE.
ずーっと考えて、まるで父親が生まれてくる子供の名前を考えるかのように(知らんけど)考えて、ある朝目覚めとともりORU SPICEが降ってきました。
ってゆう感じです。
第一章の途中に戻ります。
僕は、ホンダのストリームというダサい車に乗っていました。良い車ですけどださい。
スノーボードや釣りに使っていました。
その前は友達にタダでもらった雨漏りするキューブ
その前は、突然エンジンが唸りを上げてぶっ壊れたゴルフワゴン(ローンだけ残る)
その前が初めてのマイカー、トヨタマークIIバン
通称マーバン
超ローダウンしてイメージ的にはカプリスワゴンみたいな(勝手に良いように言っている)感じで乗っててくそ気持ち良い車でした。。
で但馬の冬でも無敵のストリームから、90年代の花屋さんが配達に使っているようなイメージのデリボーイに乗り換えました。
その辺から思考の変化が生まれ始めます。
自分という人格が形成されて行く頃なのかもしれないです。
とりあえず、便利とかそうゆうことは置いておいて、かっこいい車に乗ろう。
って感じでかいました。真冬はエンストします。雪降ったら乗れません。凍ったら坂上がりません。そもそもスノータイヤ履きません。
冬は歩いて通勤したり先輩に送ってもらったり。
そんな暮らしです。
で、カレー屋を考えだした頃、イベント出店が始まった頃、この黄色いデリボーイを使って、カレーやできないかなーなんてゆう思いからインターネットサーフィンをしていたところ運命的に見つけてしまったのが愛知県蒲郡市サンデースパイス
黄色デリボーイ移動販売で創業のスパイスカレー屋さん。うわっお、自分が目指すことをすでに(何年も前から)やっておられる。心が熱々になりました。
その後のサンデースパイスさんがどうなったのか気になって追いかけたところ、ガレージを改造してすんごく素敵な店を開き、今もなお営業していることを知り、自分も必ずこうなりたいっていう憧れを抱くようになりました。
サンデースパイスさんは店舗営業と別で、テキヤブラザーズというなんともワクワクしちゃうネーミングな屋台イベントも定期的に開催されています。(いったことないけど)年に一回とかではなく、何回も定期的に。そうゆうカルチャーを作っている部分にも強く憧れを抱きました。
そして、いよいよORUSPICEの店舗作りが始まり、開店が現実味を帯びてきた昨年5月サンデースパイスのカレーを口にしました。
蒲郡市で毎年開催されているこれまた、とんでもなくクールな飲食店の音楽の野外フェス森道市場です。
全国各地の小さくて硬くて強くて優しいお店が一堂に会するやばいやつです。
アーティストの俺たちの赤丸はくるりとハナレグミでした。
でしたが結果的に自分にはくるりよりハナレグミよりサンデースパイスの人に会えて食べれてたことが最高に興奮でした。
snsの中で見る人を目の前にして、あっほんに存在するんだーって、心臓がドキドキしました。
カレー三杯食いました。
今年も2杯食いました。
それで、oru spiceの通常営業と別で、自分たちもイベントやりたいなっていう案をあたためてきた訳です。
テーマは大衆酒場。
なぜなら俺たちは酒とアテが好きだから。
豊岡は居酒屋の街だから。
豊岡の街は良いですよ〜。田舎だけど良い店がたくさんあってハシゴ酒できちゃう。ホッピングって言うらしいです。
サンデースパイスさんのテキヤブラザーズ(いってみたい)からひらめきを与えてもらい、サンデー酒場を始めました。
サンデー被りしていますが、うちのサンデーの意味は日曜日開催だからです!
日曜開催の意味は、今回サンデー酒場を一緒に立ち上げた、友達が日曜ならやれるでーって言ってくれたからです。
日曜アーリータイムに開催の大衆酒場。
サンデー酒場です。
良い振動が末に広がればという思いを込めて
good vibration.
good vibration サンデー酒場
俺が与えてもらったように、これからなにかのスタートを目指す人の、すんごい軽い第一歩の場になれればいーなーと思っています。
大事にしたいのは、食べ物や出店者より、みんなで作るgood vibrationな時間です。
肩の力を抜きすぎて始めた結果、後からみんなからフルボッコにされた第0会サンデー酒場のフライヤーはコチラ💁
レポートは、また後日。
では!