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◆読書日記.《ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』》

※本稿は某SNSに2022年4月27日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』読了。

ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』

 1960年に出版された若手デザイナーのためのデザイン概論であり、デザインの考え方を示す書。著者はフランス生まれの建築家。本業は建築ではあるが、絵も発表し、彫刻を作り、音楽家でもある。

 面白かったしためになった。その上資料的価値もあるとても有用な内容であった。

 読んでみると内容がどこかで見たような内容だな……と思っていたら、思い当たった。ぼくの母校の授業で出てきたやつだった。ぼくは大学で本書に書かれた内容と似たような授業を受けていた事があったのだ。
 ぼくの母校はバウハウスの教育方針を参考の一つとしてカリキュラムをたてていたらしい。
 バウハウスの教育方針は、絵画や彫刻、テキスタイル、デザイン等を統合して建築という総合芸術が出来上がる……という「総合芸術」のスタンスが特徴的であった。

 本書の著者も建築家なので、デザイン論は建築デザインを中心に論じられる。
 バウハウスも、様々なジャンルの芸術が統合されるものとして「総合芸術としての建築」という形で体系立てていたので、デザインは建築と無関係ではないのだ。

 本書ではまず初めに形態について、そして素材について論じ始めるというのは、バウハウスのデザイン思想でも重視されていた。確かモホリ・ナギマルセル・ブロイヤーの授業では素材や形式からデザインを考えるというものがあったんじゃないかと記憶している。
 その上で本書では更に「気候」や「方位」といったものとデザインとの関係について論じていく事となる。これらが合わさってデザインの考え方における「原型(アーキタイプ)」となる。

 つまりデザインは「紙面上のもの・図面上のもの」だけのものではないし、そうあってはならないと考えるのがバウハウス的な考え方であった。

 グリヨのデザイン思想には常に「自然の法則」と「科学」そして、それらから反発しない「独創性」を求めるという傾向があるように思える。グリヨ自身の言葉を借りれば「独創性と簡素さ」という事になるだろう。

《デザインとは?》

「デザインはすべての人に関係がある。生活も、食事も、祈りも、遊びも、その中で行われている」とグリヨは書いている。

 人が作るものには全てデザイン的な思考が働いていると言える。

 どのような形に作るのか?
 どのような色にするのか?
 どのような配置にするのか?
 どのような手順にするのか?

 などなど、それらは全てデザイン的な思考だ。

 現代人はあらゆる「デザイン」の中で暮らしているのである。
 われわれは、様々にデザインされた家具やインテリアの中で過ごし、様々にデザインされた寝具で眠り、様々にデザインされた服に身を包み、様々にデザインされたテレビ番組や雑誌の紙面を眺めながら毎日を過ごしているのである。

 それらは「商業デザイン」や「工業デザイン」ではあるが、デザインは何も企業から与えられるものばかりではないので「庶民のデザイン」というものもある。

 それどころか、本書の著者のグリヨは専門的なデザイナーだけが重要なモノを作っているとは思っていないらしく、一般庶民のデザインこそが根本的なものなのだと考えているようなのである。例えば――

 農民の芸術には永遠性があり、鶏の玉子や小麦の収穫の様に本質的なものであり、常に新しい味があるのは、経済性と最低必要条件に立脚したきびしい論理から生まれたものだからである。建築家はしばしばこの作者不詳のデザインを自分の作品に取り入れた。
 それは任意にほんの少しのデザインを見ただけにすぎなくても、農民の建築にはどんな細部にも基本目的がある。こうして発見したものを他の環境、他の要求に合わせようとしても、それはちぐはぐになってしまう。
      ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』P.80より

 これはぼくは至言だと思う。

 特に建築を考えれば、そういった「自然の法則」からデザインはそうそう簡単に逃れられないものなのだと分かる。

 太陽の向き、湿気、気温、土壌、周辺環境などを全く考慮に入れずに建築を考えるという事など、現代に至ってもほぼ不可能ではないだろうか。
 だからこそ、本書でもデザインの考え方の重要なポイントとして「気候」という項目を一章割いてまで説明しているのである。

 そういった自然上の条件を強引に無視して進めると、日本の昨今の建築のような"不自然な"建築を作ってしまう事となる。

 ただでさえクソ暑い日本の夏が、コンクリートだらけの都会では輻射熱で更に過酷な暑さになってしまった。湿気も逃げ場がない。
 オフィスの中だけガンガンに冷房をつけて、余計な電気を消費しながら、外に出ればムリな建築思想によって暑さのしわ寄せが襲ってくるようになった。

 これもひとえには日本が自らの気候との調和のとれた建築デザインであり都市デザインをプランニングしてこなかったせいでもある。

 ぼくが思うに、日本の大枠での建築思想、都市デザイン思想はほぼ「無思想」に近いのではないかとさえ思うのである。
 ここら辺の問題は、アレックス・カー『ニッポン景観論』でも触れた事である。とにもかくにも、日本とは「思想」のない国だと思わざるを得ない。

 ――さて、このように見て行けば、われわれは様々な「人間が作ったモノ」に囲まれて生きて、生活をしている事が分かる。
 それら「人間が作ったモノ」は当然、「形」を決めなければ作る事ができない。
 その「形」を形作るのがデザイン思考というものなのだ。

 例えば農家の人が使っているありふれた道具であっても、グリヨの言うように「経済性と最低必要条件に立脚したきびしい論理」によって作られなければ、無駄に装飾的だったり、無駄に機能が多すぎたりして、かえって使いにくいモノになってしまう。
 例え「何気ないありふれたモノ」であっても、それが必要な用途に最も適しているとなれば、それが最も良い「デザイン」なのだ。
 そういう「何気ないありふれたモノ」も、誰かが考え、デザインしたからこそ我々の生活の中で息づいているのである。

 そもそも「デザイン」とはそういう生活の必要に迫られて創造されるものであって、テレビの広告プランナーや華々しいファッションデザイナーだけが「デザイン」の世界にいるわけではない。

 そういった意味が、冒頭の言葉に含まれているのである。

「デザインはすべての人に関係がある。生活も、食事も、祈りも、遊びも、その中で行われている」――ポール・ジャック・グリヨ

《デザインにおける「方位」や「気候」との関係について》

 日本の住宅は南向きが基本だが、北半球では大抵の住宅が南向きになっている。これは北半球ではどの地域でもだいたい同じである。

 グリヨの表現を借りれば、家は船の様に必要な方向に適時向きを変えてやる事ができない。立てたらそのまま、その立地、その向き、そのスタイルで家が壊れるまで付き合わなければならない。そのために昔の農民や漁民などは一年ほどその土地の気候風土を観察してから家を建てるようにしなければならなかったという。

 住宅で何よりも大きな問題は「日当たり」であろう。太陽は、昔だけでなく現在もなお無視できない大きな建築上のファクターになっている。
 窓から日が入って来なければ、日中から電灯を灯さなければならない。そのような効率の悪い事をしなくてすむ太陽の恩恵と言うのは、太古の昔から現在に至るまで変わる事がなかった。

 太陽は南から差すので窓は南向きに開放するのが良い。更に東の方角に向けば朝方の陽光を入れられる。夜の闇の中で冷えた部屋を暖め、寝室を照らして起床を促進してくれる。

 それに対して西日は敬遠される事が多い。

 西は午後の熱い太陽を思わせる。夏の西日は低く赤熱線と赤外熱線が多くなりすぎる。夏のいちばん悪い方角である。
     ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』本書P.104

 ゆえに、住宅は人間に最も快適な陽光を向かい入れ、過ごしにくい暑い陽光を避けるよう南東へ向かってたてられるのが好ましいと言われる(但し北半球の場合に限る)。

 このようにデザインに「方位」が重要になるのは、そういった周辺環境との調和を考えるためである。

 建物の方位を支配する天然の力が二つある。一つは破壊をもたらす強力な風であり、他は生命力を与える太陽である。原則として建物は風を避け、陽光をうけるべきである。方位決定のいちばんの条件はこの二つである。
     ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』本書P.104

 このような考え方からも、グリヨがデザインに必要なファクターとして「自然の法則」を挙げている理由が分かる。

 「風を避ける」ために必要になるデザインは、屋根の形に影響を与える。
 鋭角すぎる屋根では強風が吹いたら吹き飛ばされてしまう。だから風の強い地域の屋根はゆるい勾配になっており、ローマ式の重い瓦で葺いているのである。

 屋根の勾配の違いというのは日本縦断すればその違いと言うのには気づくものが多いだろう。積雪地帯の屋根と、雨の多い地域の屋根と、熱帯の地域の屋根では、やはり形が違ってくるのである。

 「伝統的建築」のデザインというものは、そういった地域の環境に長く晒されてきた教訓が込められているからこそ、「自然の法則」に従ってフォルムが決められている。
 「自然の法則」を無視したデザインというものは、調和を崩すだけでなく、どこかに無理が生じる。
 そういう"不自然"なデザインで建築を建てると、現代の多くの日本建築のように(そして上でも言った通り)、真夏に暑さを抑えるどころか、密室に閉じこもってクーラーによって強引に冷やすという効率の悪いやり方をしなくてはならなくなるのだ。

 デザインにはこういう条件が関わってくるから「伝統的建築」のスタイルを見れば、その土地土地の気候や風土を逆算して推測する事もできる。
 因みにぼくは、伝統的な西洋建築と日本建築の違いについては、和辻哲郎の『風土』を読んだ時にすっきりと全てがつながったという感覚を得たものだった。

《デザインにおける「素材」との関係について》

 デザインについて考えなければならない要素には「素材」というものも入ってくる。

 バウハウスの教育では素材の研究もおこなわれていたと言われている。
 バウハウスの時代というのは既に産業革命を経て近代に突入していた時代である。

 近代ともなると、山まで赴いて木を切り倒して運んできたり石を切り出して運搬してきたりという形で大量の素材を持ってくるよりも、地元に工場を建てて、そこで鉄やガラスを生産したほうが安上がりな時代になっていたのである。

 木や石はタダで作れるわけではないのである。

 これらの素材は特に「運搬」に金がかかるというリスクが大きい。
 特に産業革命前であれば、「輸送」の問題は非常に厳しかった。そのため昔は地域によって、その地域の近隣で大量に獲得できる建築素材を利用する必要があった。
 地域によって木造建築が多かったり、煉瓦や石積みによる建築が多かったりと建築素材に特色があるのはそのためである。

 例えば、同じ森林帯であっても、北方森林帯と赤道森林帯とでは、樹木の扱いは全く違ってくる。
 建築素材として理想なのは、加工がしやすい素材であり真っすぐで挽き易いもの。そして軽量の上に質が均等であると建築素材としては扱いやすい。これらは北方森林帯に密生する樹木の特徴でもあった。
 しかし、同じ森林帯であっても熱帯などの赤道森林帯の樹木は密度が高くて硬く、加工には向かないものが多いらしい。そのためにこれらの木は合板などにするしか使えない。これらの地域の伝統的な建築では、例えば神殿などには使うものの、住居など主な建築物については竹や葦などといった植物をツタ植物などで束ねて作られる等といった使われ方をする。

 こういった地域上の条件が、その土地土地における伝統的な建造物のデザインを決めてきた重要な要素の一つとなるのである。

 だが、バウハウスの時代では、鉄やガラスの大量生産が可能となり、そういった新しい素材を使ったほうが経済的だという条件が強くなっていたのである。
 時代と共に条件は刻一刻と変わっていているから、デザインもそれに合わせて日々更新されていかなければならないものなのだ。
 だから、その工場で大量生産できる新しい建築素材によって、どのように建築や家具をデザインするかというのがバウハウスでは課題になっていたのである。

 その成果が例えばミース・ファン・デル・ローエマルセル・ブロイヤーによる自転車の鉄パイプを利用した椅子のデザインに結実するのである(それらの椅子は先日ご紹介した写真/稲越功一、文/内田繁『椅子の時代』にも出てくるわけである)。

 本書では建築素材の種類を大きく5つに分けている。

1.岩石物質……岩石、粘土のごとくそのままの状態で地中にある
2.有機物質……木材のような細胞組織のもの
3.金属物質……天然にある微小分子構造の精製物
4.合成物質……ガラス、プラスチック等の加工品
5.新混成物……コンクリート、レンガ等、上記の物質2種または2種以上の混合によるもの

 現代では、昔の様に「運搬」にかかる費用がそれほど大きくないので、デザイナーは様々な素材を自由に使えるようになったと感じているかもしれないが、その考え方をグリヨは諫めている。

 多くの材料の中で、各部分のデザインにどれがいちばん適しているかを選ぶだけでなく、併用しても調和のとれる素材を選び合わせることがさらに大切な問題である。
       ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』本書P.53

 何故その素材を使うのか? 一種類だけ使うのか?それとも複数の素材を組み合わせて使うのか? その素材は何故それの用途にマッチしているのか? その素材を使って周囲との環境との調和は取れるのか?
 こういった問題をどう扱えば良いのかというのも重要なデザイン思考である。

 芸術は付加によって完成されるものでなく、選択または選定と呼ばれる除去のプロセスによって完成される。同一作品に数多くの材料を用いることは、デザイナーの想像力に乏しい自分の作品を隠すために、いろいろの素材に必死にすがりつく、それらはちょうど、ずるいコックが肉の味付けが悪いのをスパイスをいっぱいふりかけてごまかそうとしているのに似ている。
       ポール・ジャック・グリヨ『デザインとは何か』本書P.52

 また、素材を自由に選べるからと言って、その地域特性を考えずに済むようになったわけではない。これはテキスタイルデザインなどを学んでいる者からすればよくわかる考え方ではないかと思う。
 日本のように夏は湿気が多くて暑い……という気候に合った服を選ぶとなると、単に半袖やTシャツなどの薄着になればいいといったスタイルの問題だけではなく、空気を通しやすい素材だとか汗をすぐ吸い取ってより早く乾燥しやすい素材だとか肌にベッタリとくっつく感じがないサラっとした素材だとか、服の生地だけでも、十分その地域や季節に調和する素材を選ぶ事がデザイン上重要になってくる事がわかるだろう。

 表面的な色や形態や装飾だけにこだわるというのは、デザインの初歩的な間違いなのである。


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