◆読書日記.《ガレス・レン&ロードリ・レン『サイエンス・ファクト 科学的根拠が信頼できない訳』》
<2023年2月21日>
ガレス・レン&ロードリ・レン『サイエンス・ファクト 科学的根拠が信頼できない訳』(ニュートンプレス)読了。
書店の親書の新刊をチェックしていた時に、ふとニュートン新書の赤い背表紙が目に付いて「そういえばニュートン新書って読んだ事なかったな」と思いついて、新刊の中でも特に興味があったこの一冊を選んだ。
最近はポパーの科学哲学に興味を持っていたので、その関連で科学哲学の分野の話であったり、最近Twitter界隈でも「エビデンス(科学的根拠)」という言葉をやたら聞くのに、言った本人が「エビデンス」という言葉をどうにも理解していない風であったりという「科学」の考え方が空中浮遊しているような妙な感覚に不安を感じる事があったり、お医者様や大学教授といった立派な肩書を持った方々がメディアに出て科学的にデタラメな事を喋ったり、――というモヤモヤするような状況をすっきりさせたいという期待もあって本書を選んだのだ。
著者はいずれも英国エディンバラ大学の科学者であり、ガレスとロードリは親子の関係である。
父のガレスは実験生理学の教授で「視床下部がホルモン分泌を調整する仕組みや食欲を抑制する仕組みの多用な側面を主な研究テーマとした」という。
息子のロードリのほうはエディンバラ大で技術イノベーションを研究している研究員だそうで、「引用ネットワーク、普及バイアス、科学的知識の社会的形成に関する論文を多数発表している」のだそうだ。
本書の内容は「まえがき」にて本書の著者のひとりロードリ・レンが簡単にまとめている。
本書の文章も上のように非常に平易で読み易く、多少の専門用語は出てくるものの、本を置いて調べなければ前に進めないほどの専門的な知識を要求してくるわけでもない一般読者向けに分かり易く書かれた科学本だ。
だから、本稿を読んで少しでも興味を持たれた方は、ぜひ本書をお読み頂きたいと思う。ただし、新書で注を含めて600ページ以上の分量のある本なので、多少読むのに時間はかかるかもしれないが。
本書の副題「科学的根拠が信頼できない訳」という言葉から「ほら見ろ科学者の言っている事なんて信頼できるようなもんじゃないんじゃないか」等と極論に走ってはいけない。そして、本書はそういう極端な人の期待するような事が書かれているわけではない。
「科学的根拠が信頼できない」というこの割と過激な言い回しは「だから科学がダメだ」と言っているわけではないからだ(ちなみに原題は『THE MATTER OF FACTS』だから、本書のこの副題は日本の編集者が売りセンを狙って付けたものかもしれない)。
そうではなく、簡単に信頼できるようなものではないからこそ「科学に対する向き合い方を正しくしなければならない」と考えるのが、本書の読者に求められる態度であろう。
科学は「信頼できない」のではなく、「どこまでであったら信頼できるのか」という事を考えるのが重要なのだ。
過去、中谷宇吉郎の『科学と社会』のレビューの際にも指摘した事だが、日本は「科学的知識」は広く庶民に普及したが、肝心の「科学的思考方法」に慣らされていない。
だから、提示された「科学的根拠」の中身が正しいのか正しくないのかという事を考えるのではなく、メディアに出てくる「お医者様」や「大学教授」といった「肩書」を信頼してコロリと騙されてしまったりするのである。
「科学的な考え方」に共感を寄せるのではなく、「肩書の権威」に共感を寄せてしまう――そういった「非科学的な態度」を警告するのが、本書の内容でもある。
Twitter界隈に良く見られる議論のように「エビデンス(科学的根拠)」さえ提示できれば証明できた、という考え方は、科学に対する正しい態度ではないのだ。
実験を行って得られた結果を称して科学者たちは「エビデンス(科学的根拠)」と呼ぶが、そこで重要なのは、その「エビデンス(科学的根拠)」とされるものは本当に正当なものなのかどうなのか、それが本当に妥当なものなのかどうなのか、といった事なのだから。
「現代科学は科学的根拠に基づいて構築されているが、その根拠が意図的に選択されれば、科学はいわば虚実を織り交ぜたフィクション(うそ)と化してしまう」と本書の著者は指摘している。
エビデンス――ファクト(事実)と報告された事――だけが、それのみで何かを主張するという事はない。根拠に基づいた結論には、必ず科学者の「判断」が入っているという事だ。
だからこそ、「これはエビデンスがあるから正しい理論なのだ」といったような単純な理解は間違っている。
「科学的根拠」を、単なる権威にしてはいけない。
ここまで考えられたら、やっと本書の内容に入っていくだけの心構えができる。
きっと「科学的に実証されたものは正しい」という素朴な科学観を持っていた方は、本書を読んでその認識が次々に覆されていく事に感動を覚えると共に、科学的方法というものの抱える本当の難題を理解する事だろう。
◆◆◆
本書の構造は割とシンプルだ。
最初の1章「科学の規範と構造」~2章「ポパーとクーンが考える、科学とは何か」で、科学という学問の方法論を説明し、その構造的欠点を指摘する。
そして、続く3章~25章にかけて、具体的に科学の現場からどのような誤りが発生するのか、その問題点を多岐にわたって徹底的に論じ、解説していくという構造になっている。
科学に潜む問題点を多岐にわたって言及しているからこそ、本書はこれだけの厚みを持つに至っているのである。
触れられているテーマを軽く列挙するだけでも、「論理実証主義:実証の困難」「科学用語のあいまいさ」「エビデンスの全体性」「誇張された主張、意味の柔軟性、ナンセンス」「複雑性、および因果関係を語る際に生じる問題」「論文と発表と引用:複雑なシステム」「事実はどこにあるのか?」「意図せぬ結果:出版バイアスと引用バイアス」「影響力の大きい論文:引用率、引用のゆがみ、誤った引用」「発表された研究結果のほとんどは誤りか?実験計画法と結果分析の弱点」等々といった多彩さである。
本書の著者は二人とも現役の科学者であり、その分野も違う。本書を読んでいくと、本書を書くにあたっての二人の役割というものが何となく見えてくる。
具体的な研究室の中の事情であったり学界や科学コミュニティの事情については、エディンバラ大学で実験生理学の教授を担当している父のガレス・レンがその知見を提供し、またそれら実験プロセスの先――論文を発表してからの過程――で発生する発表形態における問題や引用ネットワーク上の問題や普及バイアスに関する問題等については技術イノベーション研究を行っている息子のロードリ・レンが担当しているのであろう。
科学というものは、ジャンルが広大だからこそコミュニティも大小さまざまで数も多く、その全体を見渡す様な視点と言うものを持つのはかなり困難であったろうと思わせられる。
二人は同じ大学の科学者でありながら、片方は自然科学、もう片方は社会科学と違ったジャンルを担当していたからこそ、視野が拓けたという部分もあったのだろう。
本書は、そういった広大な裾野の広がる「科学」というものに共通する根本的な構造に関する問題点を指摘し、更に具体的にその研究の現場から論文の執筆、論文の出版/発表、交流、知識が普及していく所にまで分け入って細かく細かく問題点を発掘していく様を描いている。
これほど広大な「科学」という学問の問題を徹底的に洗いだしているからこそ、その言及範囲と言うのは驚くほど巨大だ。
これは政治学や法学、経済学、教育学、社会学など「社会科学」にも関わってくる問題なので、文系は関係ないという話ではないのである。
本書で指摘されている「科学の問題」というものは、刑法、刑事訴訟法の妥当性にも影響してくるし、そうなると警察捜査や科学捜査の妥当性も無関係ではなくなり、果ては推理小説的な捜査の「論理」の問題にも波及してくる。
実際、ミステリ・ファンであるぼくは、本書の最初のほうに言及されている科学の根本的問題については、推理小説に寄せて考えていた。――同じくミステリ・ファンであれば、ぼくと同じく「後期クイーン的問題」などが思い浮かんだ事であろう。
そういう事もあって、ぼくはどちらかと言えば、具体的な事例よりも、前半のポパーやクーンの科学哲学のくだりや、科学の根本的な問題についてのほうがより自分の関心を引いたと言えるだろう。
ポパーやクーンだけではなく、これはフッサールの超越論的現象学(ぼくが西洋思想の中でも特に興味を持っている分野だ)にもリンクしてくる問題になってくる。
そもそも『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でも言及されているように、フッサールは超越論的現象学を全ての学問の基礎学として構想していたのだ。
「科学が正しいという根拠は何なのか?」「論理的思考が正しいという根拠は何なのか?」という問題は、超越論的現象学の対象範囲なのである。
では、科学が抱える根本的な問題とはどこにあるのだろうか?
本書の最初の章で著者は、この問題をポパーの科学思想を踏まえて説明する。
本書で「科学とは何なのか?」という問題について、ポパーとクーンが取り上げられているのは、著者によれば彼らの理論が最も大きな影響を与えているからなのだそうだ。
ポパーの有名な考え方の一つに、科学の「反証可能性」というのがある。
科学と宗教とは、何が違うのか? 科学と疑似科学とは何が違っているのか?
ポパーは「科学的言明は<反駁可能である>という点で、疑似科学的言明と異なっている」と考えた。「科学的言明が現実について話している限り、それは反証可能でなければならない。すなわち、反証可能でない限り、その言明は事実について語っていないのである」と。
例えば、ある問題について出された答えが、本当に正しいのか間違っているのか、第三者が検証して反証する方法がある、といった場合には、その言明は「科学的だ」と言える。
逆に、その答えを反証するすべが何もない――と言った場合には、その言明は「科学的ではない」という事である。
科学は出した結論について、自らが間違っているかどうかをチェックするためのテストを考案する事が出来、それを実行する事が出来るからこそ「科学」なのである。
預言者や教祖が言った事について、自ら嘘がないかどうか検証する方法がない――だからこそ宗教は科学とは考え方が違っているのだ、と言える。
逆に言えば科学的態度とは、絶えざる批判的検証によってその妥当性を常に疑う態度にあると言えるだろう。
科学者とはプロの懐疑論者なのだ。
(因みに言えば、ここで言う「懐疑論者」というのは、全否定をする人たちを称して言っているのではない。それよりも彼らは「貴方の理論には問題点があるから、もっと説得力のあるエビデンスを出せ」と要求するような人たちなのである。例えば「不正行為をしているに違いない」と言っているのは「懐疑論者」ではない。「不正をしていないというのであったら、桜を見る会前夜祭の領収書を全て出して見せれば良いだろう」と、言うのが「懐疑論者」なのである)
だから、理論に対して決して批判的な態度をとらない者などは、イデオロギーや迷信や信仰や教条主義に囚われた「非科学的な人」という事となる。「この理論は批判してはいけない」という考え方など、非科学的な考え方だ、というわけである。
これがポパーの主張する、いわゆる「批判的合理主義」である。
科学的な方法によって導き出された答えは、決して「真理」ではない。
ポパーから言わせれば、科学的理論とは常に批判的な意見に開かれている「暫定的ドグマ」であり、少しずつであってもより良いものに改善していく事が重要なのだ。それが、科学というものなのである。
ポパーの「科学は硬い岩盤の上にあるわけではない」という言葉は、本書では何度か引用されている。おそらくこれが著者の考えとも一致しているのであろう。
日本ではこういった科学の基本的構造に潜む問題からして、一般に知られた事ではないから、「学校で教えられた事」や「メディアで大学教授が言っていた事」を無批判に信じ込んでしまう人が大勢出てきてしまうのだろう。
本書を読んでおらずとも、上に書いてきた事が理解できていれば、科学的な態度というものは、エビデンスを無批判に信じてしまう事ではなく、常にそのエビデンスに対して「本当にそうなのか?」と懐疑的な態度で挑む事だというのが分かるであろう。
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