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◆読書日記.《磯田光一/編『塚本邦雄論集』》

※本稿は某SNSに2019年9月1日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 磯田光一/編『塚本邦雄論集』読了。

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 文芸評論家・磯田光一が現代短歌の歌聖・塚本邦雄について語られた42の評論文を集めて編纂した論文集。

 伝統的な31音という形式を完全に守り乍らも「前衛」であり続けた塚本邦雄の短歌の謎を多くの作家・評論家・歌人が紐解いていく。最大の謎は「塚本邦雄」本人なのだ。

 本書を読み終えても未だに謎が残る。
 だが、だいたい当時の歌壇からその後の評論家たちなどが塚本邦雄についてどのように捉えていたのかという状況は理解できた。
 まだまだ自分、塚本邦雄に対する理解が浅かったかな、とも反省した。そして塚本の「壮烈」とも言えるほど美意識や理想の高さが嫌というほど感じられた。

 塚本邦雄の短歌には、それまで抒情性を重要視していた詩や短歌の世界に、知性であり思想であり技巧でありアクチュアルなテーマであり社会的な主題であり西洋的美意識であったりする、様々な異物を注入したことに一つの現代性を見る事ができる。
 それは正しく彼を歌壇に推した中井英夫の美学と相通じるものがあった。

 ぼくが塚本邦雄の短歌を、意味が分からないまま惹かれていったのは、他の短歌にはないそういった塚本なりの強烈な個性を感じていたというのもあるのだろう。

 短歌の31音という厳格なルールであえて己を縛り、その上で前衛であろうとする意識というのは、ぼくには中井のアンチ・ミステリという構想と似通った意識を感じるのである。

 推理小説もあらゆるルールにがんじがらめに縛られた小説形式だ。
 読者に対して事件の手がかりはフェアに与えなければならない、作中のルールは明確に読者に提示されていなければならない、探偵役は知性によって事件を解決しなければならない、事件~捜査~犯人告発というストーリー展開を守らねばならないetc.

 これらのルールはあくまでこの文学ジャンルの「暗黙の了解」であって必ずしも守らねばならないものではない。
 だが「暗黙の了解」であるだけに、このルールは読者側も十分理解しているという事が、翻って作者側を拘束する。
 推理小説を書くと言う事は、このルールで自らを縛ると言う事に他ならないのだ。

 塚本邦雄には、このような推理小説と似たような《型》意識があったようだ。

 塚本はその《型》を憎悪していたがために、逆にその《型》で自らを縛った。

 塚本は《型》に嵌りながらもそこからの脱出を図るのだ。

 京極夏彦が『鉄鼠の檻』で書いていたように、檻から脱出するには、まず檻の中に入らなければならない。
 別の言い方をするならば、掟破りなことをしたいならば、まずは「掟」があってそれが皆に守られていなければならない。
 常識外れな行いは、ちゃんとした常識のある所でしか「常識外れ」にはならないのだ。

 塚本邦雄は短歌に手を付け始めたときから「短歌は既に死んでいる」と考えていたらしい。
 だからこそ、それを現代に復活させるためには、短歌にとっては劇薬じみた様々な異物を注射するショック療法が必要だったのかもしれない。

 そのうえ彼は自分の短歌に更に様々な制約や技巧を入れ込み始める。それが「句またぎ」や「語割れ」といったテクニックだった。

 ぼくの学生時代、クリエーター志望の多くの友人は「前衛でありたい」とか「何か新しい事がしたい」と言って伝統的な形式を憎悪していたものだ。
 だが推理小説マニアだったぼくは独りで「それは違う」と思っていた。
 現代的に新しくて前衛的なものを目指すには逆に伝統的な《型》にハマる戦略が必要なのではないかと。
 または、富野由悠季監督が言っていたように、全く今までにない新しい《型》でありジャンルを作るしかないのではないか。

 それはぼくが当時、現代アートや前衛アートが伝統的な形式から逃れて自由気ままにやればやるほど、チープで退屈なものに成り下がっていってしまうという感じを受けていたからに他ならなかった。

 アヴァンギャルドは自由にやればやるほど価値判断の意味を喪失して迷走する。価値の「底」が抜ける。それは1950~60年代の「読売アンデパンダン展」の貴重な教訓ではなかったのか。
 元々ぼくはそう言う考えを持っていると言う事もあったからこそ余計、塚本邦雄の前衛であるためにあえて己を縛る《型》の意識が、ぼくには愛おしく感じられるのだ。


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