◆読書日記.《丸尾末広『天國(パライゾ)』》
※本稿は某SNSに2021年1月15日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
丸尾末広先生の最新作!長編マンガ『天國(パライゾ)』読みましたよ~♪
日本を代表するグラン・ギニョール画家・丸尾末広による残酷絵巻。
それぞれ内容が緩やかに共通する5つの短編を納めた作品集。舞台は終戦直後の荒廃した長崎。そして、大戦末期のポーランドにおけるホロコースト。そんな、極限状態でもがく人間を描く。
今回の丸尾末広先生は、はホラー的な超常現象や異形の者などはほとんど出てこない、あくまで現実に即した「残酷絵巻」を展開する物語となっている。
あえて架空の物語としなくとも、現実というものはそれだけで十分「残酷」な絵を見せてくれるものなのだ、と言っているかのようである。
終戦直後の日本も、ホロコーストも、「死」が日常的になり、自分が生き残るためならどんな卑怯な事でもどんな残酷な事でもしなければならなかった。――それが生き残るための条件なのだから。
終戦直後のあの時代。――子供たちはスリや盗みで食いつなぎ、女は体を売って生活をする。路上で子供が死んでいても別段騒ぎなどは起こらない。――それが日常の一コマになっているのだから。
この世は地獄だ。
死んだ者のほうが、いち早く楽になれたかのようにさえ思えるほどである。
「天国(パライゾ)」のみが救いなのか――?
大戦末期のポーランドのホロコーストにも、そんな地獄が展開されていた。
十分な食事を与えられずにガリガリに痩せたユダヤ人たち。
彼らは過酷な労働に従事しており、定期的に何名もの収容者が「飢餓室」に送り込まれていた。
「飢餓室」とは、水も食料も与えられず、ただただ締め切られた狭い部屋に集団で閉じ込められる「処刑」の手段であった。
ユダヤ人たちは、ただ殺されるためだけにそこにいた。生きれば生きるほど苦しみが長引くのみ。
――「最も苦しんだ者が天国の門を開けるのだ 虐殺された日本のキリスト教徒たちが夢想した天国(パライゾ)も同じだろう」。
江戸時代、長崎で26人のキリシタンが処刑された。
同じ長崎で、大戦末期には核兵器が炸裂する。
「日本ハ何故米国ニ負ケタノカワカルカネ? 日本ノヨウナ三等国ニハ神ガイナイノダ」
「神」なき地・日本の長崎にカトリック神父が訪れる。
ある神父は、子供を助け、導こうとするが、ある神父は戦災孤児を育てる孤児院で、密かに少女らに性的虐待を行う。
ある神父は日本を「劣った国」と軽蔑し、優越心を感じ乍ら神に服従するよう人々に諭す。
荒廃したこの世の地獄・日本で彼らは何を見るのか。
一方、核爆弾が投下される直前の長崎からポーランドに戻り、そのままホロコーストに収容されたユダヤ人のコルベ神父は、「飢餓室」に入れられる者を救って自分が代わりに「飢餓室」に入る、とナチの職員に申し出る。
彼は水も食料も断たれた状態で閉じ込められた飢餓室の中でやせ衰えていく。
コルベ神父はまさに苦しみ抜いて瀕死の状態にあったとき童貞マリアの姿を幻視する。
「最も苦しんだ者が天国の門を開けるのだ」――苦しいだけのこの世の中にあって、彼らがすがるべき救いは「殉教者」という考え方だけだったのかもしれない。
丸尾先生の狙いはシンプルに、基本的には淡々と「残酷絵巻」を展開させる事にあるのかもしれない。
だから本作には説教臭い所があまり見受けられない。
だが人間にとってこの世が「残酷な世界」である事。それ自身が、否応なくテーマ性を帯びるものである。
長崎で処刑されたキリスト教徒というのは「信じていた」からこそ殺されたのであり、ホロコーストのコルベ神父も、わざわざ自分から進み出なければ飢餓室で死ぬ事もなかった。
そう考えると「殉教」というのも不思議なもので、進んで死ぬ事が、信仰を守る事に繋がる。神への忠誠心が人を死に追いやってしまう。
最近の丸尾先生の漫画は、不思議と最後に「救い」のようなものが見える事がある。
目を覆わしむる「残酷」の果てに待っている何かしらの「聖性」……苦しみの果てに行き着く「超常性」――近年の丸尾先生の作品には「そこ」を描きたがっているようにも見えるのである。