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◆読書日記.《ヴィジュアル版建築入門編集委員会/編『ヴィジュアル版建築入門5 建築の言語』》

※本稿は某SNSに2020年7月12日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 ヴィジュアル版建築入門編集委員会/編『ヴィジュアル版建築入門5 建築の言語』読了。

『ヴィジュアル版建築入門5 建築の言語』

 本書は建築物を成り立たせるための要素や空間言語、構成法、形態の生成手法などをそれぞれ建築言語のキー・ワードを用いて解説する建築論集。

「入門」というよりかは専門性の高い軽めの論集といった感じ。

 全体的には近代建築から現代までの建築思想の流れを確認し、それを踏まえて今後の建築はどうなっていくのか?といった事に言及した論説が多かったように思える。

 近代建築というのは例のライト、ミース、コルビュジエの三巨匠とバウハウスのグロピウス、それからルイス・カーンらの仕事を指す場合が多いようだ。

 それまでの(西洋の)伝統的な建築と近代建築との違いというのはどこからくるのか。

 建築思想の古典から近代への分水嶺となったきっかけは明らかに「産業革命」が関係している。つまり、建築材が木材や石材、レンガなどから工業製品としての「鉄・ガラス・コンクリ」がメインにシフトしたという事が大きい。

 大量生産品を使う事によってコストダウンができ、そのうえ都市開発の活性化のためにどんどんと巨大建築を増やしていくという近代的な産業の流れにマッチした建築として、特にバウハウスなどが試行錯誤したのが「鉄・ガラス・コンクリ」を使った大量生産品を使ってどのような建築デザインがありえるかという事だった。

 こういった大量生産の工業製品としての「鉄・ガラス・コンクリ」を利用できる建築デザインとしてバウハウスが影響を受けたのが「デ・ステイル」やモンドリアンの提唱していた新造形主義であった。
 つまりは四角形を幾つも重ね合わせて形を作り上げる、あの幾何学的な図案のデザインである。

 伝統的な建築思想というのは、特にランドマークや巨大建築などは「装飾」が重要であった。

 その特異点となったのが、空間恐怖的に装飾で埋め尽くされたフランスのヴェルサイユ宮殿であろう。
 あの貴族趣味的な「装飾の館」が市民革命で打倒された後、市民のものとして、そして工業社会にマッチした建築デザインとして現れたのが「機能美」や「効率性」という、まさに資本主義社会らしい考え方に基づいた建築デザインであったと言ってよいだろう。

 フランク・ロイド・ライトの師匠であるシカゴの建築家ルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う」と言ったらしい。これは単純な機能主義の話ではないのだが、20世紀初頭を飾った建築の多くは明らかに機能主義・合理主義の建築が流行する事となった。

 その最大の象徴となったのがニューヨーク摩天楼に出現したビル群――つまりは細かい無駄な装飾を削ぎ落しまくった末に現れた「巨大な立方体のガラスの箱」である。

 もはや建築は「芸術」ではなく「道具」の一つとなったのだ。

 因みにぼく個人としは、20世紀初頭に流行した、このような機能主義を追求したデザインというのは決して嫌いではない。

 バウハウス的なデザインは「機能主義的すぎる」という意識の元、現在の建築デザインや工業デザインでは、デザイン的な装飾性が戻ってきている。

 ただし、ぼくはそういう現在のデザイン感覚の建築というのは、かつて建築物にあった芸術な感覚よりも「商品」としてパッケージングされたデザインが増えてきてないだろうか?と思うのである。
 つまり、最近の建築デザイでもインダストリアルデザインでも、ぼくはボードリヤール的な消費社会論的な問題を見てしまうのだ。

「売れる」ことが大前提になってしまうと、ではそのデザインに果たして内容は付いていっているのか? 昔の実用性のあったものに対して、現代の技術を誇れるだけの内容があるのかどうか、という「中身」の問題が二の次になってしまう。

 これは先日ご紹介した宮大工の西岡常一氏が『木に学べ』でも指摘していた問題だった。

 法隆寺は建物として千年も倒れずに使われてきた。では、その10分の1でも耐えられる現代建築が、今の日本に果たしてどれほどあるのだろうか?
「今の大工は耐用年数のことなんか考えてませんで。今さえよければいいんや」という西岡常一氏の現代建築批判が思い出される。
「資本主義というやつが悪いんですな。利潤だけ追っかけとったら、そうなりまんがな。それと使う側も悪い。目先のことしか考えない」。

 残念ならが、本書『建築の言語』でも、こと「耐用年数」に関して言及している論者はいなかった。つまりは材質論的な考え方は本書には出てきていないのである。

 地震や台風、洪水が頻発する日本において、建築に求められるのは西洋建築よりも強い「シェルターとしての建築」の考え方である。
 西洋建築には「建物は自然の驚異から身を守るシェルター(殻)である」という考え方が存在している。
 だからこそ西洋建築の壁は「殻」として身を守るために、固く閉ざされているのだ。

 残念なのは、本書の論者のほとんどが日本の建築家であるというのに、そのほとんどが西洋建築の思想を追っかけている点で、日本建築の思想を今後の建築に活かそうという発想が全くない点である。
 日本の環境にマッチした建築デザインというのは、外国の建築デザインを学んでも出てこないのではなかろうか。

 伝統的装飾的建築から、近代的「機能主義・合理主義」的建築デザインへ。そして、建築思想は西洋哲学の分野と同じく「近代の超克」という問題にぶち当たったようだ。

 機能主義・合理主義を突き詰めすぎると、全く味気のない建築群で町が覆われる事となる。という事で建築思想でもポストモダンというものは、モダン建築を超克するものとして、機能主義の乗り越えとしての新古典主義や脱構築主義等のデザイン思想が発展していたようである。
 だが、そういった流れも更に落ち着き、今後のポスト・ポストモダンデザインの思想が求められるに至ったようだ。

 本書の出版された時期(2002年)時点での各論者の問題意識というのは「新しいデザインの価値観」といったものが多く見られる。

 だが、ぼくとしては今後の建築デザインに求めたいのは「環境とどう折り合っていくか」という点であって、新たな「美」の創出をしている場合でもない、ということだ。

 これだけ環境問題が騒がれている昨今、何故未だに電気やガスなどのエネルギーに依存しなければ成立しない建築を作り続けていかねばならないのか。
 集中豪雨など自然災害の多い日本にあって、何故災害対策をメインに考える「シェルター思想」が抜けているのか。
 それはデザインとは関係がないとで言うのだろうか?

 現代の建築デザインのあり方というのは、ボードリヤールの消費社会論的な批判に大いに当てはまると思う。

 つまり、現在デザインが売っているのは、機能であったり中身であったりするのではない。

 これについては、以前ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を紹介した時にぼくが述べた文章を引用しよう。

「ロボット掃除機、全自動洗濯乾燥機、食器洗い機」が今の「三種の神器」だそうだが、これを購入することによって得られるのはプラグマティックな便利さだけではなく、その家電があることで示される自分のライフスタイルのスマートさであり、それらは安定的な高年収者という地位を可視化するガジェットとなるのだ。
 コカ・コーラのテレビCMが鋭く現代的という意味で興味深いのは、それがもはや「コーラの美味しさ」を伝えることは問題になっていないという点にある。コカ・コーラのCMは味を宣伝しているのではなく、コーラが買った人のライフスタイルを飾る「アクセサリ」として機能することを暗示しているのである。
 コカ・コーラのCMから伝わってくるのは、現代消費社会が具体的な効能を売る社会から、全く抽象的で組織化された記号としての雰囲気を売っている社会に移行しているのだということである。そう言った意味で、コカ・コーラのテレビCMは非常に現代的と言えるだろう。」

 ――この指摘は、そのまま現代建築のデザインの中空性にも適応できるものだとは思わないだろうか?


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