◆読書日記.《アルベール・カミュ『異邦人』》
※本稿は某SNSに2019年12月3日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
アルベール・カミュ『異邦人』読了。ご存知ノーベル文学賞受賞作家カミュの代表作ですよ♪ 「きょう、ママンが死んだ」――から始まる物語。
<あ・ら・す・じ>
アルジェリアで海運業者の事務を務めている青年ムルソーの元にある日、養護老人施設から母の死を伝える電報が届く。
彼は母の葬儀を行うべく養老院へ向かう。
彼は死んだ母と再開したが、その顔を一切見ようとしなかったし涙も流さなかった。
そのうえ彼は葬儀のあった日野翌日、知り合いの女の子と遊びに行って情事に耽る。
母が死んでも、彼の日常は変わらなかったのだ。
そんなある日、友人であるレエモンを付け狙うアラブ人を誤って射殺してしまう。
アラブ人は、レエモンが血の出るほど殴って振った情婦の家族だったのだ。
アラブ人はレエモンを付け狙っていたが、偶然ムルソーが銃を所持していたタイミングで匕首を抜いてムルソーと対峙してしまう。
ムルソーは焼き付けるような太陽に照らされて半ば呆然としながらも、持っていたピストルを撃っていた。
アラブ人は死んだ。ムルソーは殺人罪で逮捕された。
裁判で検事は、ムルソーが母親の葬式でさえ涙を見せない冷酷な人格の人間だという事を強調し、彼を死刑にするよう訴えかける。
検事の訴えのために、陪審員の印象が悪かったムルソーの判決は死刑。
刑務所に収監され、死刑判決を受けた無感動・無関心のムルソーはそのとき、何を考えるのか?……というお話。
<感想>
本作のあらすじでよく見かけるのは『ムルソーは殺人の動機について「太陽のせい」だと答える。彼の判決は死刑だった』というもの。
このあらすじに「不条理」という説明を付け加えると「太陽のせいで殺人を犯したという不条理な動機を持った殺人者の物語」を想像してしまうが、実際はそうではない。
ムルソーが殺人を行ったのは上にも書いたように、銃を持っているタイミングで、仲間を付け狙っている人間から刃物を突き付けられたという状況でだった。
ジリジリと肌を焼く強い陽光の照り付ける中、額に浮かび上がっていた汗はムルソーの眼に入り込んで、彼の目は見えなくなった。刃物を持ったアラブ人が目の前で彼に迫ってきていた。彼は半ばパニック状態で引き金を引いていた。
つまり正当防衛と言えなくもないし、正当防衛を立証できずとも過失致死あたりにはなるだろう。そうった状況を上手く説明できずに「太陽のせいで……」と言ってしまったのだ。
ぼくは本作を実際に読むまでは、この作品はてっきり竹本健治先生の不条理ミステリ<トリック芸者>シリーズのような不条理小説かと思っていたのだ。
<トリック芸者>シリーズというのは、短編のミステリ・シリーズなのだが、殺人事件の犯人は毎回ある特定の女性なのだ。
彼女は毎回、非常に巧妙に仕組まれたトリックを使って殺人事件を起こすのである。
探偵役がそのトリックのからくりを暴いてみせ「何故わざわざこんな事をしたのです?」と尋ねると、犯人の女性は「そこはそれ」と言って泣き崩れる――というのがこのミステリの毎回のパターンとなっている(笑)。
何と、この殺人事件の動機は全く「ない」に等しいのだ。このシリーズは推理小説的な派手な殺人が起きているのに動機がない、という重要なはずの「動機」が欠落した殺人という不条理を描いているミステリなのだ。
だが、カミュの本作はそういった意味での「不条理」ではない。では、本作では何を「不条理」と呼んでいるのか。
それはカミュ自身の次の文章にその答えの片鱗が隠されているように思われる。
母親の葬儀で涙を流さない人間はすべてこの社会で死刑を宣告される恐れがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるより他ないという事である。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無い事を言うだけでなく、あること以上の事を言ったり、感じる事以上の事を言ったりする事だ。われわれは毎日、嘘をつく。
カミュ、英語版『異邦人』自序より
……この文章に書かれている意図は明らかに「社会批判」だ。ぼくとしては、この辺りにカミュの設定した「不条理」のありかがあると見ている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
まずは、本作の小説としての特徴を見ていこう。
本作は、非常に乾いた文体を持っている。特に第一部は、一センテンスが短く、文章の構造も非情に単純だ。これは、さぞかし外国語に翻訳しやすかっただろうなあ、とさえ思った(笑)。
本作は一人称なのだが、特に前半主人公はほとんど自分の感情を語ろうとはしていない。第一部は自分の行動や周囲を観察した様子などが書かれていて、心理描写は非常に薄い。
それでも、彼のモノローグに良く出て来る、彼自身の考えを表す言葉は「どうでもいいのだが」や「〇〇は意味がない」や「どっちでもよかったのだが」だ。
この無味乾燥なモノローグと乾いた一人称叙述によって、ムルソーという男のパーソナリティが良くわかる。
彼はその文体と同じように「乾いて」いるのだ。
もっと言えば、感情が「鈍い」。激昂したり、男泣きに泣いたり、腹の底から歓喜に湧いたり、恐怖のあまりチビったりといった「激しい感情」をほとんど持っていないのである。無感情であり、無関心。ほとんど何ものにも執着を持っていないかのように見受けられる。
その彼の性格の特性が、まさに冒頭の「母の死」に関わるシーンに特徴的に示されている。
彼は母の死にさしてショックを受けておらず、さほど悲しいとも思わず、悔恨の気持ちもないようだ。少なくとも母の死を悼んでいるようすが伺える描写はない。
母の死を知らせる電報を見たあとも真っ先に気にしたのは「いつ亡くなったのだろうか?」ということで、次に会社の雇い主に「二日休みます」と言ったらイヤな顔をされたことを気にしている。葬儀の際は、母の顔も見ずに埋葬してしまう。
そしてその葬儀の翌日にはもう女友達のマリイとデートするのだ。
マリイとのデート・シーンにも、彼の無感動で無関心な性格が出ている。
ムルソーは、マリイから「自分と結婚したいか」と尋ねられるのだが、「私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいと言った」というそっけなさ。
でも、マリイから求められるとキスもするしエッチもする。
さらには、仕事で雇い主から、君は若いしパリに行って大商社相手に仕事しないか?と勧められるも「(ここアルジェでもパリでも)どちらでも私には同じことだ」と断ってしまう。
能動的ではない。無気力なのだ。
自分の殺人罪が問われている裁判でも、彼は「被告人席の腰掛の上でさえも、自分の話を聞くのは、やっぱり興味深いものだ」とほとんど他人事だ。
大した主張がある訳でもないし、野望もなければ将来の夢も特にない様子。熱い正義感があるわけでもないし、かと言って薄暗い恨みつらみも持っていない。
あるのは映画や海水浴や食事を楽しんだり、目の前の女の子に欲情したり、というごくごく短期間で満たされる欲望。そして、生活のそこここに現れるちょっとした不快感。そんな動物的で即物的な感情しかないのだ。
いま目の前にある「それ」をそのまま受け入れて生き、深い事は考えずにやっていく事しか、彼の人生には存在していないのだ。
……以上、彼のパーソナリティを見てきて、改めて「邪悪」だと思える要素がどこかにあっただろうか?
彼は確かに本作に出て来る登場人物たちに「変わり者」だという感想を持たれるし、普通の人と比べてかなりニヒルで乾いた性格の人だと言えるだろう。
しかし、そんな彼は果たして死刑に値するだけの唾棄すべき人格で、死刑に値するだけの大変な罪を犯したと言えるのだろうか?
ぼくが真っ先にこの小説の中に見つけた「不条理感」は、ムルソーの裁判で、検事が事件の事実内容よりも「ムルソーが母親の葬式にさえ涙を流さず、その翌日女性と恥ずべき情事を行った」という事を強調しはじめ、そのことを証明しようとやっきになっているという事態だった。
ありえそうな事であると同時に、これほど不条理なこともないではないか。
あの犯罪の呼び起こす怖ろしさよりも、この男の不感無覚を前にして感ずる恐ろしさには及びもつかないだろう、とはばからずに言い切った。同じく彼によれば、精神的に母を殺害した男は、その父に対して自ら凶行の手を下した男と同じ意味において、人間社会から抹殺さるべきだった。
アルベール・カミュ『異邦人』本文より
母の死を悲しくないと思うような人間は、普通の感情を持った人間からしたら「異邦人」であり、それは「人間社会から抹殺さるべき」だという検事の主張が通る所に、ぼくは最大の「不条理」を感じるのだ。
「不条理」というのはつまりは「理屈にあわぬ理屈」「なんとも筋道の通らぬ論証」だということである。
ここでもうひとつ、ぼくお気に入りのエピグラムを引用しよう。
「陪審は、選ばれた12人で構成され、どっちのほうがデキる弁護士を雇ったかを決定する」――ロバート・フロスト(アメリカの詩人)。
裁判というのは、斯様にバカバカしいものだ。
前にも呟いたと思うが「裁判の判決」というものは神様が決めている訳ではない。あくまで人間の判断で、人間が決めている事だ。
だから「完璧に正しい裁き」などというものは存在しない。人間が決めることだから、必ずその中には「間違った判断」が存在している、いわば「不完全な裁き」が「判決」というものだ。
本作で起こった殺人事件も、悪意も計画性もない、せいぜい「過失致死」辺りの事件だ。
これに釣り合うのが「死刑」とはどういう事なのだろうか?
ムルソーは映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主人公のように、裁判でほとんど申し開きをしない。それを「反省していない」と取られてしまう。
それが果たして、フランス国民の名において殺されるに値するほどの罪なのだろうか?
人間が人間を裁く「不完全な判断」に基づいた裁きに「死刑」という、もう取り返しのつかない、後戻りもできない決定的な刑を用いるのは正しくない――カミュはかつて思想エッセイ『ギロチン』でそのように主張して死刑廃止を訴えた。
カミュは死刑廃止論者だ。本作にもその思想は多少なりとも反映されていると思う。
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さて、本作のクライマックス・シーンでは、そんな無感情・無感動のムルソーが、初めて激しい感情を露わにし、その心情を激しく吐露する。ぼくは本作の中でも、このシーンが最も好きだ。
彼は死刑判決を受けてからその事実を他人事のように色々と考えるのだが、そんな彼に司祭が会いに来て「なぜ私の面会を拒否するのですか?」と尋ねて来る。ムルソーは無神論者だった。
司祭が「私はあなたのために祈りましょう」と言ったとたん、ムルソーは大口開けて怒鳴りだし、彼をののしり、祈りなどするなと言った。
彼は叫ぶ。「何ものも何ものも重要ではなかった」と。「人殺しとして告発され、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう?」と。
彼にとっては皆が等しく平等なのだ。
皆等しく「意味がない」し、「重要ではない」。
皆一様に死ぬ宿命を持っている、という意味で皆一様に選ばれた特権者なのだ。
だから皆平等に「重要な意味などない」。
皆一様に価値があり、価値がない。
そう確信する彼は自分こそが最も「正しい」という自信を持っているのだ。
――この彼の「確信を持ったあきらめ」のようなもの、目の前のことを何の価値判断も持たずに受け入れ、流れのまま生きていく意思というものは、ラスト・シーンでは神々しささえ感じてしまう。例え、この彼の「そのまま生きる」という姿勢こそが、「死刑」へと彼を追い詰めた決定的な要素だったとしても。
こういった彼の偏った乾いた性格が、彼の運命を決定的に追い詰めてしまうというこのプロットこそが、この作品のラストをとても重々しく、皮肉なものにしている。
彼は自分の決定的な死の運命を受け入れる事で初めて、それまでの彼の心にない、とてもすがすがしい気持ちを手に入れたようなのである。
――あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望を全てからにしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心を開いた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切が果たされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みと言っては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
アルベール・カミュ『異邦人』本文より
この哀れな青年を「哀れだ」と言うことは、きっと彼を侮辱してしまうことになってしまうのだろう。じじつ、司祭の祈りと哀れみに対して、ムルソーは激怒した。社会的な不条理に運命を弄ばれた彼の人生も、まぎれもなく彼の人生だったようだ。
――どうか、あらかじめ全てを諦め受け入れている無感動な青年の魂に、幸あらんことを。
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