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◆読書日記.《つげ忠男『昭和まぼろし 忘れがたきヤツたち』1巻》

※本稿は某SNSに2020年8月30日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 つげ忠男『昭和まぼろし 忘れがたきヤツたち』1巻読みましたよ♪

つげ忠男『昭和まぼろし 忘れがたきヤツたち』1巻

 つげ義春の弟にして、兄と共にあの伝説のマンガ雑誌『ガロ』で活躍した劇画家の半自伝的長編マンガ。


<あらすじ>

 舞台は終戦直後の昭和23年、東京の下町――小学生の津田英春は気の荒い祖父と病弱な義父から毎日のように虐待を受けながら過ごしていた。

 昼間、2人の兄は学校をやめて働きに出ており、母も病気の義父と高齢の父を支えるために働きに出ていた。そのため英春は学校が終わって家にそのまま帰ると義父や祖父にいじめられるため、バラック小屋の立ち並ぶ街で時間を潰す日々であった。

 同級生の子供たちと遊ぶ約束がなければ、ブラブラと街を彷徨った。

 マンガを立ち読みしても文句も言わず「ボウズ達、また立ち読みか?」と笑ってくれる古本屋のオヤジ。
 顔見知りのカフェの女給さんたちは「イチゴ水作ってやるから」と優しい。
 英春ら家族が間借りしている建物の一階にある共産党の事務のお姉さんはいつも何かと英春を気にかけてお菓子やご飯を御馳走してくれる。

 英春が憧れているのが「サブロクのテツ」と呼ばれる町のバクチ打ちだった。彼は激戦地だった沖縄戦の生き残りの兵隊。
 終戦後、故郷に戻ってみれば知り合いはいずれも行方知れず。恋人はならず者に強姦されたのち、赤線に流れたらしい。親戚や知り合いを捜し歩いて、いつの間にか風来坊になっていた男だった。

 テツはケンカが強かった。
 町では時折ケンカが見られた。家も仕事も食べるものもない終戦直後の日本では、ケンカ見物もウサ晴らしのひとつだったのだ。

 英春はテツに憧れる。自分も早く大きくなって力をつけて、いつか自分を毎日殴っている義父や祖父をやっつけてやるんだ!そう考えていたのだった。というお話。


<感想>

 面白かった。だが正直、マンガはお世辞にも巧いとは言えない。
 絵柄は実兄のつげ義春と似ているものの つげ義春ほどの描写力はない。
 空間感覚も凡庸で、俯瞰や煽りの描写がない。そのために常にカメラワークは人の目線の高さで平行移動しているので、絵的なダイナミズムが感じられない。これは「絵」だけ見ていると少々単調に思えてしまうかもしれないマンガだ。

 しかし、この怨念の籠ったような線はいい。

 Wikiでつげ忠男さんの経歴を見てみると、本書の主人公「津田英春」とほぼ同じような状況で、しかも「あとがき」で「年寄りの苦労話を一人でも多くの人に聞かせ、いや読ませ、うんざりさせてやろう」と本作の創作動機を話しているので、これが「自伝的長編」であることは、ほぼ間違いないだろう。

 Wikiでは「病弱で労働もできずに家にいた癇癪持ちの義父と、血の気の多い母、漁師上がりで荒くれ者の母の祖父が一つ屋根の下で反目し合いながら暮らしており、忠男は訳も分からずにいきなり殴られる場所であったため、外出は逃亡であった」とあって、これはほとんど本書の内容とも同じ状況だ。

 主人公の名前が著者の名前を若干変化させた名になっているので、多少の創作も入っているかもしれない。

 だが、こういうのがつげさんが伝えたがっている「苦労話」なのだろうと、読んでいて何となくわかる。

 しかも、どうしようもなく荒れ果てた当時の日本の下町の状況というのがいちいち興味深い。

 この終戦直後という時代は以前から興味があった。
 ほんの数年前まで天皇崇拝の思想で戦ってきた人々が、今はアメリカの民主主義思想に迎合しなければならない。どういった心境だったのか?

 大戦中は弾圧されていた共産党員も晴れて自由の身となったと思えば、今度はアメリカのアカ狩りに耐えねばならない。

 本書の登場人物は問う。「思想の自由てのは一体なんだ?」「アメリカさんの考え方をしっかり身につけろってことさ」。

 町の荒廃と、激戦地上がりの男達の内面の荒廃がパラレルの関係になっているかのよう。

 絵的な技巧はそれほどではないかもしれないが、ここには確実に「伝えたい何か」がある。創作で重要なのは、むしろそこなのだとぼくは思う。


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