◆読書日記.《作者未詳『虫めずる姫君 堤中納言物語』(光文社古典新訳文庫版)》
※本稿は某SNSに2020年8月17日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
蜂飼耳/訳、作者未詳『虫めずる姫君 堤中納言物語』読了。
作成年代も作者もバラバラの10の短編(現代の観点からすれば掌編というべき分量だが)を集めたアンソロジー。
それぞれの作者は不明。作成年代も不明。編者も編集意図も不明でテクストのみが書き継がれてきた謎の古典物語として有名な恋愛小説集。
光文社古典新訳文庫版で「いま、息をしている言葉で」というコンセプトで訳されたために、登場人物のセリフも感情表現も軽い。
そのために原文から読んできた人からは、この訳はあまり評価はされていない様子。ネット上で見られるレビューにも低評価のものがちらほら見られる
しかし、この物語のおおよその粗筋を理解するためには左程問題はないものと思われる。
まあ勿論、物語集なのだから、それぞれの文章にかかってくるニュアンスというのは重要だとも思えるが。そこら辺が訳文の難しい所でもある。
しかし、原文を読んだ人の反発心というのも、古語で書かれた恋愛物語と見れば雅やかさも感じられようが、この現代語訳だと平たく言えば「身も蓋もない話」になってしまうという、そういう点に原因があるのではなかろうかとも思えてしまう。
というのも、この堤中納言物語に出て来る恋愛というのは、現代的な感性から見てしまえば「純愛」的なものではなく「尻軽男の浮気話」が延々続く物語なのだから。
例えば「ささやかにいみじう子めいたり。物言ひたるも、らうたきものの、ゆゑゆゑしく聞こゆ」なんて古語で語られれば、確かに何となく雅やかさは感じられるものの、現代人の男性の言葉で訳されれば「あの子は小柄ですごくかわいい。喋り方もかわいくて品がある!」と、とたんにチャラ男みたいな文章になってしまう。
けっきょく平安時代の恋愛小説というのは、そういうものではないのかなとも思えてしまう。
つまりは「古語で語られるがために雅やかさが感じられるのだが、現代に翻訳してしまうと身も蓋もない話になってしまう」という事。
勿論、平安時代の恋愛観というのは現代とは違っているし、この物語も一般感覚を語ったものだとは限らない。
だが、現代人の我々から見てみれば、この時代の貴族の恋愛観というものには、様々な所に違和感を抱いてしまうのではないだろうか。
ただこの物語を楽しむのならば、我々はただそのギャップに「歴史」を見ればいいと思うし、そのギャップを楽しめばいいのだと思う。難しい事は特にない。
そう言う前提でこの物語を見てみれば、なかなか現代との価値観の違いに興味が湧いてくる。
冒頭の一編「花桜折る中将」なんかは、主人公の中将のチャラ男っぶりが飄々とした雰囲気を醸し出していて楽しい。
昨晩一夜を共にした女性に対して「昨日は君、なんか冷たかったよね」的な歌を詠んで相手に贈ると、相手からは「かけざりしかたにぞはひし糸なれば解くと見し間にまたみだれつつ」と、「貴方の浮気心は分かってますよ、また別の女性が気になってるんですね、浮気な人」と言った意味の返歌が返ってくる。
そんな辛辣な返信を見て男はのんきに「なかなか上手い歌だなあ」なんて感心している。
この男性は、この女性から辛辣な歌の内容はあまり気にせずに新しく気にいった姫君と昵懇の仲になろうとし、その家の者の手引きによって姫の部屋からサッと女を引っさらって牛車を出発させたら、良く見てみるとその女性は姫君ではなく、姫君の御婆さんで「こんな事をするのは誰だ!」とお怒りの模様。
お婆さんを姫君と間違えてさらってきてしまった、というお話。
このお話に出て来る貴族の男性もたいへんな尻軽男ではあるが、堤中納言物語に出て来る男は多かれ少なかれ、このような恋愛価値観を持った連中で、女房や恋人がいるにもかかわらず平気で可愛い女の子を見かけては恋をしてアタックをしかける軽薄男ばかり。
例えば集中の一編「はいずみ」では、女房のある男が、別の家の女に恋をしてコッソリとそちらの家に通うようになる。
男は人目も憚らずに新しい恋人の元に通う。
新しい恋人の家の両親はそれを知って「妻のある方だけれど、こうなってしまたからには仕方ない。と通うことをゆるした」といった展開になる。
現代的に言えば、既婚者の男性が女性と浮気し始めたら、相手の御両親が既婚者と承知の上でこの浮気男を「仕方ない」と許してしまった、という事となる。
この後、男性の女房は悲しみに暮れて、男性は女房の悲しみを知って心動かされる、といった展開になるのだが「相手の両親が許した」点については全く言及されることがない。
つまりは、そういう事は当時としてはヘンな事ではなかったのかもしれない。
我々からしてみれば驚天動地の展開とも言えるが、そういう現代とのギャップに文化の隔たりを感じて、そういう所に面白みがあるとも思えるのだ。
そして集中、白眉は何と言っても本書の表題作ともなっている「虫めづる姫君」であろう。
世間では身分の高い人の姫君などは、普通は年ごろになればお化粧もして花よ蝶よと美しいものに惹かれるのに、按察使の大納言の娘はお化粧もせずお歯黒もせず、男ものみたいな袴を履いて、普通の姫君は怖がってしまうような毛虫なんかを熱心に集めては観察しているような変わり者。
で、その変わり者の姫君に右馬佐という貴公子が興味を持った、というのがこのお話。
つまりこの話も恋愛譚なのだが、この話の魅力の第一は何と言っても「虫めづる姫君」の魅力にあると言ってもよいだろう。
当時の常識から考えてみると、この姫君のやる事なす事、全くの常識外れで変人以外の何ものでもない。
少なくとも、そういういう風に世間では見られているし、お付きの者にもそういう風にヘンな眼で見られている。
だが、この姫君の言っている事は現代人の我々の視点から見てみると意外と啓蒙的でしっかりとしたことを言っているのである。
毛虫が好きなのも、それが脱皮して羽化して蝶になる過程を観察したいからだという事が分かる。
化粧をしないのも「人間っていうものは、取り繕う所があるのは、よくないよ。自然のままがいいんだよ」という理由だ。
彼女の理屈は次のセリフで凡そ理解できる。
「世間で、どういわれようと、あたしは気にしない。すべての物事の本当のすがたを、深く追い求めて、どうなるのか、どうなっているのか、しっかり見なくちゃ」
このセリフからも分かるように、この姫君の魅力のひとつは、この姫君の考え方が当時の貴族文化の常識を逸脱して、むしろ我々の時代の科学や啓蒙思想に近い考えにまで至っている「常識を逸脱して真理に至る」タイプの爽快感にある。さすが、『風の谷のナウシカ』のナウシカの着想元になったキャラだと言えよう。
このように、この物語を今読む意義というのは、当時の貴族文化やその当時の常識と、我々現代人との認識とのあまりのギャップに、ありありと時代の隔たりが感じられるという所にあるとは言えないだろうか。
これが、我々現代日本人と地続きの人間の生活や考え方だったと思えば、その差のいちいちに興味が湧く。
平安貴族の認識と我々現代人の認識のこのギャップというのは、貴族文化と現代の文化の間に「武士文化」という大きな断絶が存在しているからではないかと思っている。
現代の日本の文化は、貴族文化よりもむしろ、鎌倉時代から江戸時代まで続いた武士文化の影響のほうが大きいのではないかと思うのだ。
また、当時の貴族文化というのは、庶民の文化とは全く別世界という意識も必要だろう。
平安の王朝文学というのは貴族の話がメインとなっているわけで、それが日本人全体の生活様式になっていたというわけではない。
平安の貴族文化というのは、むしろ西洋の貴族文化をイメージしたほうが近いのではなかろうか。
貴族というのは兎に角時間に余裕がある。だから趣味や遊びが様々に発展している。
本作でも、貴族は普段からまるで日がな一日遊び倒しているかのような印象を受ける事がある。
この「貴族の遊び」というのも、現代のわれわれからしてみれば物珍しく、興味を惹かれる。例えば、どちらが珍しい貝を持っているか比べる「貝あわせ」や、取ってきた菖蒲の根の長さを比べる遊び「菖蒲の根あわせ」などの様子が本書には描かれている。
また、それだけ時間があるからこそ、貴族というのは西洋でも平安貴族でも「教養がある」という事が尊敬の対象となると言われている。
本書でも、貴族は教養の示しとして兎に角やたらと歌を詠む。歌を読む事によって挨拶としたり恋を告白したり浮気心を批難したり謝罪の言葉としたりするのである。
日本には歌物語の伝統というものがあるからこそ堤中納言物語でもやたら歌が挿入されるという点もあるかと思うが、それでも貴族は歌が上手くなければコミュニケーションが円滑に進まないのではないかと思えるほどに事ある毎に歌を詠む。こういた教養重視の感覚も貴族的だ。
西洋でも貴族は教養があるほうが尊敬されるというのは変わらない。
だから貴族文化的にアート文化は保護されなければならないものだとして寄付が行われるし芸術保護政策などもちゃんと整備され、先進的なアートを持っているお金持ちは尊敬される。
日本ではこういう貴族文化に由来する感覚というものは武士文化を経由する事によってリセットされてしまったのではないかと思う。
だからこそ我々は今『堤中納言物語』を読んで、そのあまりのギャップに新鮮な驚きと、そのなかに面白さを感じるのではなかろうか。